どうも。マンガフルライターの相羽です。
世の新型コロナウイルス関連の事象もあり、色々と不安な日々。いかがお過ごしでしょうか?
そんないわゆるコロナ禍と言われているようなご時世の中でも大ヒットしている作品が、漫画『鬼滅の刃』です。
せっかく多くの人たちの共通の話題になっているので、今回は『鬼滅の刃』の物語を読み解きながら、たくさんの人の悩みである「恐れ」や「不安」をやわらげていく、ということを試みてみようと思います。
今回の記事は、こういう人におすすめです。
- 『鬼滅の刃』が大好きな人
- 何となく、日々「不安」を感じている人
- 「物語」が好きな人
今回のコラムでは『鬼滅の刃』という作品の大事なキーワードとして、
- 「転生」
という言葉をとりあげます。
はたして、
- 『鬼滅の刃』全体の物語と「転生」の概念がどう関わってくるのか
- 『鬼滅の刃』を通して「転生」(など)について考えてみることで、我々の現実の「不安」が軽くなるなんていうことがあるのか
答えはここから先の文章に全て書いてあります。
読んでいくうちにちょっとだけ日々の「不安」がやわらいだり、あるいは改めて作品の魅力に気づくようなコラムになっていると思うので、ぜひこのまま読み進めて頂けたらと思います。
漫画『鬼滅の刃』全編の物語を考察・解釈するという記事の性質上、ここから先の文章には、コミックス全23巻の最後まで、および公式ファンブック『鬼殺隊見聞録』の内容のネタバレが含まれている点をご了承頂けたらと思います。
特に、アニメ版を中心に作品に触れていたという方へ。 アニメ『鬼滅の刃』TVシリーズ第1期はおおよそ第1巻~第6巻の内容まで、映画『劇場版「鬼滅の刃」 無限列車編』はおおよそ第7巻~第8巻の内容までのストーリーで制作されています。
本記事のここから先には、第9巻以降から物語が完結する最終・第23巻までの完全なネタバレが含まれます。
個人的には、最初はネタバレゼロの状態でこの素晴らしい物語に触れて頂きたいと思っているので、アニメ版を中心に作品を追っていたという方は、この時点で引き返して頂けたら幸いです。
目次
1、『鬼滅の刃』ってどんな漫画?
著者 | 吾峠 呼世晴 |
---|---|
出版社 | 集英社 |
掲載雑誌 | 週刊少年ジャンプ |
掲載期間 | 2016年~2020年 |
巻数 | 全23巻 |
ジャンル | 血風剣戟冒険譚 |
『週刊少年ジャンプ』にて連載されていた、吾峠呼世晴(ごとうげ・こよはる)先生による漫画作品です。
コミックス(電子版を含む)のシリーズ累計発行部数は1億5000万部を突破(2021年7月時点)しており、近年特に、原作漫画第7巻~第8巻部分のストーリーをアニメ映画化した『劇場版「鬼滅の刃」 無限列車編』が興行収入400億円突破、日本歴代興行収入第1位(2021年現在)、2020年の年間興行収入世界第1位などなどの数々の記録を樹立し大旋風を巻き起こしていることもあり、いまや国民的な作品の一つと言えそうなポジションになってきている作品です。
ある雪の日。主人公の竈門炭治郎(かまど・たんじろう)は「鬼」に家族を惨殺されてしまい、ただ一人生き残った妹の禰豆子(ねずこ)も「鬼」にされてしまう……という「破綻的な出来事」を経験します。炭治郎は亡くなった家族と残された禰豆子への想いを胸に、禰豆子を「人間」に戻す方法を探しながら、やがて「鬼」と戦う組織・「鬼殺隊(きさつたい)」へと入隊し、戦いの旅路を歩み始めます。
大正時代を舞台に、「鬼」たちとの激闘、途切れぬ妹の禰豆子との家族愛、嘴平伊之助(はしびら・いのすけ)、我妻善逸(あがつま・ぜんいつ)、栗花落カナヲ(つゆり・かなを)ら仲間たちとの関係性の進展……といった物語が展開されていきます。
2、『鬼滅の刃』は「転生する人間」と「不死である鬼」の対立構造の物語である
『鬼滅の刃』は「転生する人間」と「不死である鬼」の対立構造の物語である。
どういうことか?
まず本当に『鬼滅の刃』において、「転生」するかしないかで「人間」と「鬼」は分かれるのか。
この点を証明するのはわりと簡単で、最終回の「転生」風景には、「人間」は「転生」してるのですが、「鬼」は「転生」してないのです。
既に物語を最後まで読んでいる読者さんにはもう一度最終巻を確認してみて頂きたいのですが、最終回の現代の風景では、
- 甘露寺蜜璃(かんろじ・みつり)と伊黒小芭内(いぐろ・おばない)が「転生」したと思われる「定食屋を営む夫婦」
- 時透無一郎(ときとう・むいちろう)と有一郎(ゆういちろう)の兄弟が「転生」したと思われる「眠る双子の赤子」
- 悲鳴嶼行冥(ひめじま・ぎょうめい)が「転生」したと思われる「大きな保育士」
などなど……と大正時代に「人間」として亡くなった面々は現代に「転生」している一方で、最終回を細かいところまで確認しても、「鬼」は「転生」していないという事実があります。
(『鬼滅の刃』23巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
猗窩座(あかざ)、妓夫太郎(ぎゅうたろう)と堕姫(だき)など、捉えようによっては同情できる背景を抱えているとも解釈できるキャラクターたちも「鬼」には存在しますが、やはり「鬼」である彼・彼女らは「転生」はしていません。
おそらく、「死」というシチェーションにおいて、妓夫太郎と堕姫のラスト(消滅間際)で描かれる「明るい方」側が「人間」がゆく「転生」ルートで、「こっち」側が「鬼」がゆく「転生」しないルートなのだと思われます。
(『鬼滅の刃』11巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
厳密には最終回で、竈門炭治郎と栗花落カナヲの子孫・竈門炭彦(かまど・すみひこ)の夢の中でのモノローグというカタチで、以下、
ー
死んでしまった人たちはどうなるのって聞いたら
きっと生まれ変わって
大好きな人と幸せに暮らしてるっておばあちゃんが教えてくれた
(中略)
だけど
またどこかで生まれ変わって幸せに暮らしているかもって思うと
悲しいのと寂しいのが少しだけ柔らかくなって安心するねって僕が言ったら
ずっとあっち向いてたお兄ちゃんが鼻水をすすって”うん”って言った
鬼も今度生まれてくる時は鬼にならずにいられたらいいな
時間がかかっちゃうかな
いつかきっと神さまは鬼を許してくれるよね
(『鬼滅の刃』23巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
ー
……と語られているので。
この部分が本作における「転生」観を表しているとすると。
「人間」は大正時代→令和(?)時代くらいのスパンで「転生」する、「鬼」は「転生」する可能性がないわけではないけれど、することがあるとしてもものすごく時間がかかる……ということで。
やはり、「人間」と「鬼」とは「転生」に関しては分けて描かれているということは言えそうです。
ただ、いくつか付け加えておいた方が良い見解はあります。まず、コミックスのおまけ漫画『中高一貫!!キメツ学園物語』の扱いについて。本編のパロディ作品ながら作者の吾峠呼世晴先生ご本人が描かれているので、本編と何かリンクしている可能性も考慮はできそうなのですが、今回の考察では本編とは異なるパラレル的なセルフパロディ作品と位置づけて解釈したいと思います。つまり、『中高一貫!!キメツ学園物語』のキャラクターは本編(大正時代)から現代に「転生」したキャラクターではない、と解釈するということです。傍証としては、本編で「転生」した甘露寺蜜璃が(「転生」した伊黒小芭内と思われる夫と)夫婦で「美味しい定食屋」をやっているのに対して、キメツ学園の蜜璃は「近所の芸術大学に通ってる」美大生(?)なので、やはり明確に本編と『キメツ学園』は異なり、『中高一貫!!キメツ学園物語』は各キャラクターの「転生」後の話というわけではなく、本編とは別物の番外編という位置付けが妥当だと思われます。
次に、「鬼」の中でも珠世(たまよ)については公式ファンブック『鬼殺隊見聞録・弐』の愈史郎(ゆしろう)に関する「大正コソコソ噂話」の中に、
—
珠世とした約束はひとつ、
生まれ変わったら夫婦になってほしいというもの。
珠世は微笑んで、頷いてくれたそうです。
もしかしたら数百年後に、地獄で罪を償い、生まれ変わった珠世を見つけて、
その頃には愈史郎の鬼の血も薄くなり、
二人寄り添い人間として歳を重ねたのかもしれません。
(『鬼滅の刃』公式ファンブック『鬼殺隊見聞録・弐』 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
—
……という記述がある点。珠世が「転生」できてしまうと本稿の「鬼」は「転生」できないという説が崩れてしまいます。ですが、「鬼」も時間がかかれば「転生」できる可能性には本編でも言及されている(ただし「人間」とは明らかに分けて描かれている)点は上述した通りですし、また珠世は「鬼」の中でも物語上の立ち位置が特殊な存在で、仮に短いスパンでの「転生」が可能だったとしてもあくまで「例外」として解釈できそうです。珠世は本編最終巻の栗花落カナヲの回想シーンにて、象徴的に胡蝶しのぶから「人」と呼ばれていることもあり、いわば「鬼」だけど「人間」として生きることにたどり着いた存在です。
(『鬼滅の刃』23巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
そういった位置づけである珠世に関しては、ひとつの奇跡的に「鬼」であるけれど「転生」できた(できるかもね)と描いておくというのは物語として美しいですし、存在のコアの部分で「人間」であれば「転生」し得るというのは、逆説的に本稿の説を補強するものであると考えます。
一方。
「鬼」、特に首魁の鬼舞辻無惨(きぶつじ・むざん)は、この世で死んで「転生」するどころか一人で「不老不死」ということを言い出しているラスボスです。
無惨から派生して、他の「鬼」たちも「転生」して次の世界へと生命(いのち)を新陳代謝させていく……といった死生観は持ち合わせておらず、ただこの世で己を「増殖」させるようにふるまっています。
これら「転生」する「人間」と、「不死(および無惨の配下は増殖)」の要素を象徴としてもっている「鬼」が、死生観を別かちて戦っているという構図が作品の基本構造ですので。
やはり、『鬼滅の刃』は「転生」する「人間」と「転生」しない(で「不死」を志向する)「鬼」の対立構造の物語なのです。
3、【図解】『鬼滅の刃』で「人間」と「鬼」がそれぞれ象徴するもの
「転生」と「不死」という死生観の対立をベースにしつつ。
「人間」と「鬼」には、いくつかの象徴的な違いがあり、それらは6項目で表現が可能であろうと考察します。
以下、まずは分かりやすく図で示してみました。
「人間」の「安心」に寄与する、
- 「転生」
- 「助け合い」
- 「受け継ぎ」
の3項目。
「人間」に「不安や恐れ」をもたらす、滅したい「鬼」の、
- 「不老不死」
- 「競争」
- 「増殖」
の3項目。
合計6項目を巡りながら、『鬼滅の刃』という作品の深いところへと迫っていき、同時に現実の読者の我々の「不安」も軽くしていく……ということを、以下で試みてみます。
4、「人間」と「鬼」の6項目を辿って不安を滅して安心を獲得する
『鬼滅の刃』は「鬼退治」の旅路の話であると捉えることができると思いますが。
物語論的には、竈門炭治郎は、新城カズマ氏の『物語工学論』のキャラクター分類における「さまよえる跛行者(はこうしゃ)」タイプの主人公です。
—
跛行(はこう):つりあいがとれないまま進むこと。
—
—
さまよえる跛行者……それは、もっとも典型的・根源的・本質的なヒーロー像であり、古代の神話や伝説にも多く登場します。
(中略)
〈さまよえる跛行者〉は、どこかしら非対称な状態から始まる(あるいは当初は対称的だったものが、いったん非対称になる)。そのキャラクターの動機はその対称性の獲得(または回復)に置かれるのが、もっとも典型的です。自分には欠けたものがある──この王国には何かが不足している──それを手に入れねばならない。回復させねばならない。これが〈さまよえる跛行者〉の基本動機の形式です。
(物語工学論 キャラクターのつくり方 新城カズマ/KADOKAWA より引用)
—
ひたいの痣(あざ)も、ギリシャ神話のオイディプスの足をひきづってるという要素と同型の、何かが欠けてバランスを欠いている状態の記号とも捉えられます。
そんなバランスを欠いてしまった炭治郎の跛行の旅の物語でありますので。
(『鬼滅の刃』1巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
災害だ、感染症だ、経済危機か……、というリアルの方のご時世もあり、何かしらの突然の「破綻的な出来事」を経験して、心のバランス、人生のバランスが崩れてしまった炭治郎に、共感できる部分があるという人はリアル読者にも多いかと思います。
冒頭の「破綻的な出来事」でバランスを崩してしまった炭治郎が、物語を通して目的(鬼舞辻無惨の討伐&妹の禰豆子を「鬼」から「人間」へと戻すことの達成)を遂げ、最終的にバランスを回復するまでを綴った物語である『鬼滅の刃』について考察するという今回のコラム。
この記事を読めば「不安」が消える! といった怪しい(笑)ことまでは言いませんが。
作中のキャラクターに感情移入しながら、登場人物の心が平安にいたるまでを疑似体験することで、現実の読者本人の「不安」もちょっとだけ滅せられるということもあるかもしれません。
次節より、『鬼滅の刃』にて、鬼退治を通して「不安」を解消していく過程がどういうものだったのか、6つの項目をある種の「旅」のようにたどりながら、見ていってみましょう。
1つ1つの項目で、「安心」への道しるべが読み取れたりするかと思います。
4-1 『鬼滅の刃』で「転生」する「人間」たち
最初の「人間」の3項目、
- 「転生」
- 「助け合い」
- 「受け継ぎ」
……は「安心」のために獲得したいもの、という感じです。
【項目1:転生】『鬼滅の刃』では死んだ「人間」が「転生」して想いを果たしたりもする
最終回では大正時代の「鬼」との戦いの中で命を落とした「人間」たちが「転生」していた風景がたくさん描かれておりますが。
甘露寺蜜璃と伊黒小芭内が「転生」している風景は、一つの時代・世界・生では成就しなかった「想い」が成就しているという側面が顕著です。
大正時代の最終決戦で鬼舞辻無惨との戦いに命を燃やし尽くし、今生で結ばれることがないと悟った二人は、「生まれ変わり」に言及して愛を確認し合って息を引き取ります。
(『鬼滅の刃』23巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
時代が流れ、大正時代に二人が命を賭して戦ったからこそ辿りつくことができた現代の日常の風景の中には、「転生」して夫婦となり、定食屋を営む仲睦まじい二人の姿が描かれます。
(『鬼滅の刃』23巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
死生観やあるいは宗教観が関わってくる若干センシティブな話になる部分ですが、個人的には「死」が終わりではなく、「転生」、つまり生まれ変わりや来世ってあるかもね! という世界観は、イイ意味での大らかさが感じられる世界観で、現在を生きている人の「安心」にも繋がる面があると思います。
【項目2:助け合い】『鬼滅の刃』の「人間」たちは階級が違う後藤も栗花落カナヲも根の部分で助け合う
『鬼滅の刃』では「助け合い」が描かれている……というのは「言わずもがな」という感じですが、特に、「階級」や「序列」を超えた「助け合い」が「人間」の方では顕著であるというのは特筆したいところです。
代表的な例が、後藤と栗花落カナヲです。
鬼殺隊にも「癸(みずのと)」から「甲(きのえ)」、そして最高峰の九名の剣士である「柱(はしら)」まで序列はあるのですが、弱った炭治郎を前にして、階級が低い後藤と階級が高いカナヲの自然な「助け合い」が描かれたりします。
(『鬼滅の刃』12巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
一方で「鬼」の十二鬼月は厳格な序列を重んじ、基本的に「鬼」同士で助け合うことがありません。
(『鬼滅の刃』12巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
いざという時に「助け合い」ができるというのは、素朴な感覚的にも「人間」の「安心」要素であると感じられます。
【項目3:受け継ぎ】『鬼滅の刃』は亡くなった「人間」たちの想いを竈門炭治郎が託されて戦う話である
『鬼滅の刃』は亡くなった「人間」たちの想いを、竈門炭治郎が託されて戦う話です。
(『鬼滅の刃』22巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
「転生」するという世界観がセーフティネット的に土台にあるがゆえに「死んでもそれで終わりではない」という想念がカタチづくられ、自然と自分が死んだあとのことを誰かに「受け継ぐ」という営みが生まれます。
「鬼」の首魁の無惨が個体で永遠に生きようとしているのに対して、「人間」の「鬼殺隊」の面々は、個体の消滅を前提にしているのです。
煉獄杏寿郎(れんごく・きょうじゅろう)という個体は死滅しても、「受け継い」だ竈門炭治郎が最終的に無惨を倒す。ゆえに煉獄杏寿郎は猗窩座にやはり負けてない。これが「人間」の強さのあり方です。
他にも『鬼滅の刃』作中では、
- 童磨(どうま)の首を最後に斬るのは今は亡き胡蝶カナエ(こちょう・かなえ)から「花の呼吸」を受け継いだ栗花落カナヲ
- 故人である錆兎(さびと)の言葉を思い出し、迷いを吹っ切って最終決戦におもむく冨岡義勇(とみおか・ぎゆう)
- 「永遠というのは人の想いだ 人の想いこそが永遠であり不滅なんだよ」という「受け継ぎ」を前提とした「人間」の「永遠」を語って散華(さんげ)する産屋敷耀哉(うぶやしき・かがや)
などなどと、ここではあげきれないほどたくさんの「受け継ぎ」が描かれています。
(『鬼滅の刃』16巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
こういった個人の消滅の後でも世界に続いていく強さのカタチがあるんだ……ということを感得するのは、「人間」としての「安心」に繋がるのではないかと個人的には思います。
4-2 『鬼滅の刃』で「不死」である「鬼」たち
ここからの、
- 「不老不死」
- 「競争」
- 「増殖」
……の「鬼」の3項目は、「不安」を払拭するために、打倒したい概念という感じです。
【項目4:不老不死】『鬼滅の刃』の「鬼」の首魁の鬼舞辻無惨は1人で完全であろうとしている
「助け合い」や「受け継ぎ」を前提にしていた「人間」に対して、一人で完全ということを言い出しているのが「鬼」の首魁、鬼舞辻無惨という存在です。
(『鬼滅の刃』21巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
おもむろに他の作品を引き合いに出すのは憚られる面もありつつあげてしまうと、国民的漫画作品『ドラゴンボール』における、「不老不死」を求めるフリーザや、「完全体」を志向するセルらと重なる方向のラスボスです。
他作品の例で恐縮ですが、なぜ「不老不死」や「完全体」といった概念が人間にとって悪になり得るのかという点に関して、もうちょっと深掘りした話を聞いてみたいという方は、(『ドラゴンボール』を知っているという前提となりますが)こちらの記事を合わせて御覧頂けたら幸いです。↓
一人で完全ということは、生と死の循環も、あるいは他者そのものを必要としないということですから。
(『鬼滅の刃』22巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
「転生」、「助け合い」、「受け継ぎ」……といった「人間」側の概念からは相容れないのが、「鬼」のラスボス鬼舞辻無惨という存在なのです。
【項目5:競争】『鬼滅の刃』の「鬼」は厳しい競争の中で上昇と強さを求めている
「項目2:助け合い」で言及した通り、「人間」の「鬼殺隊」の面々は階級を超えて助け合ったりするのに対して。
「鬼」たち、特に十二鬼月は限られた十二の椅子を「競争」で奪い合う関係にあります。
「入れ替わりの血戦」というものが存在して、闘争(競争)で勝利した者が、高い序列の席を手に入れる……という競争原理の中に存在しているのが「鬼」なのです。
(『鬼滅の刃』12巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
現実社会の方でも、競争が激し過ぎてしんどい……と思っている人は多そうです。
「競争」に絶えずさらされているため、敗北したらどうしよう、どうなるんだろう、と「不安」にさいなまれている人たちも多そうです。
「不安」を感じるとか以前に、常にピリピリしちゃったりもします。
(『鬼滅の刃』12巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
適度な「競争」は種の進歩や発展に必要な側面もあると思いますが、やはり「競争」が行き過ぎた状態になってくると歪みが生まれ、殺伐とした気持ちや「不安」が増大していきます。
本作的には、
「鬼」=「競争」
ですから。
『鬼滅の刃』における鬼退治の旅路は、過度に「競争」に傾き過ぎた世界のバランスを回復し、「安心」を取り戻していく過程である……とも深読みできそうです。
【項目6:増殖】『鬼滅の刃』の「鬼」はウイルスを連想させるように増えていく
「鬼」のキーワードが「増殖」であるということは、首魁の鬼舞辻無惨の血を媒介にして「鬼」は増えていく……という設定からも明らかですが。加えて、ビジュアル的に絵でも作中で繰り返し表現されています。
(『鬼滅の刃』2巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
「増殖」を強く指向しているというのは、ある種ウイルス的な存在とも捉えられて、やはり「人間」にとっては「鬼」は「不安」を掻き立てられる存在と言えそうです。
ウイルス=時勢的にも生物としての人間の本能的にも「不安」を掻き立てる存在=象徴的な「鬼」
ですので。
(『鬼滅の刃』12巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
やはり「鬼」を滅するという物語の疑似体験が、「不安」を滅することに繋がっていくことはあるかもしれないと思うのでした。
5、『鬼滅の刃』で感動するのは鬼舞辻無惨が滅せられることで死という人間の平等性が回復されるから
さて、「人間」側を、
- 「転生」
- 「助け合い」
- 「受け継ぎ」
……と3項目、
「鬼」側を、
- 「不老不死」
- 「競争」
- 「増殖」
……と3項目見てきましたが。
どうでしょう。やっぱり「人間」側が「安心」って感じじゃないでしょうか。
「人間」ってイイな、みたいな。
「鬼」側の3項目は「不安」を喚起する類のものなので、滅することができたならやはり「安心」……というような。
その感覚を前提とした上で、最後に作中の最大決戦、ラスボス鬼舞辻無惨を倒すことで得られる「安心」のメカニズムを見ていってみましょう。
5-1 強いのにずっと生きている存在に「人間」は心をザワザワさせられる
作中最大の障壁で、普通に「怖い」鬼舞辻無惨。
彼はものすごく強いですし、人間を殺し(食べ)ますし、ストレートな怖さも感じる鬼の首魁ですが。
同時にじわじわと「不安」や恐れで読者の精神の奥の方をザワつかせてくる、ジメっとした性質を持つラスボスでもあります。
(『鬼滅の刃』2巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
鬼舞辻無惨という存在は、表面的には暴力(性)が「不安」だし怖い、ということになるのですが。
ここでもう一歩、本作における「鬼」の概念から掻き立てられる「不安」や恐れの深部に踏み込んで考えてみると、そもそも(無惨が)「不死」であるという概念が、我々の心をザワつかせる……ということが見えてきます。
ものすごく「そもそも」の話をしてみますと、「死」というのは、「人間」の誰もにいずれ訪れるものとして「平等」なものです。
「鬼」の項目で「競争」について言及しましたが、「競争」に勝った者も負けた者も、最終的には「死」にいたるという点で「平等」です。
身も蓋もないようないずれみんな死ぬという平等性が人間という存在にとって精神の土台の「安心」を担保しているということはあると個人的には考察しています。
不死はその「安心」を揺さぶってくる概念です。私よりもあいつは優れている上に、私は死ぬのにあいつは死なない……これは心がザワザワしてしまいます。
「死」という「人間」にとっての「平等」を担保しているものに揺さぶりをかけ、世界での永遠の生存を志向する無惨。
(『鬼滅の刃』16巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
彼から伝わってくる根源的な「不安」、ザワつきを滅するための戦いこそが、最終決戦のVS鬼舞辻無惨戦である、と考察したいところなのです。
5-2 鬼舞辻無惨を滅す!やはり「人間」はいつかみんな死ぬという平等性を回復するカタルシス
そんな鬼舞辻無惨を滅する最終決戦ですが。
前提として、竈門炭治郎ひとりでは勝てなかったという描き方をしています。
炭治郎たちが勝利した要因をあえて考察してみるなら、
- 「転生」の世界観のもと伊黒小芭内は今生で甘露寺蜜璃と結ばれることはないということをどこかで悟りながらこの生を万人のために無惨を滅することに使いきり
- 「鬼殺隊」は序列的には下位の一般隊員たちから最上位の「柱」たちまで「助け合い」
- 400年前の継国縁壱(つぎくに・よりいち)からの「受け継ぎ」で大正時代の決戦の日までたどり着いた「ヒノカミ神楽」が切り札となり
……などなどと上記「人間」の3つの項目を総動員した上で戦いながら。
根底には「連帯」という大事な勝利要因がみえてきます。
戦国時代に継国縁壱一人では無惨に勝てなかったことを前提として。
400年で呼吸が幾多に派生し、多様性を担保できた。
バリエーションがあるがゆえに、「入れ代わり立ち代わり」戦う戦術が可能となり、無惨を日の出まで(および珠世の毒が効いてくるまで)1つの場所に「連帯」してつなぎ止めることが可能になったのが勝因の一つ……という描き方なので。
「連帯」が重要な要素として描かれていることまでは確かであるようです。
最終決戦終盤。「鬼殺隊」の最後の「連帯」、最後の連続攻撃が繰り出されます。
最終局面の「連帯」は、人間の3項目、「転生」、「助け合い」、「受け継ぎ」がビジュアル的にも抽象的にも関係し合っている、まさに人間の尊厳を賭けた「連帯」ですが、こういった長文をここまで書いてきた考察する者としては、あと一歩踏み込んでこの人間たちの「連帯」を成立させている根元的・根本的な一つのキーワードを見つけたくなってきます。
そして、現時点で僕が見つけたその一つの言葉は、やはり「死」だと思います。
「鬼殺隊」は「人間」として、いつかやがてみんなに「死」が訪れることを共有している。
「転生」の世界観を前提に、やがて「みんな死ぬ」ということを「人間」たちは共有していたからこそ、「鬼殺隊」は「連帯」できたと現時点では考察したいのです。
呼吸派生の源流にあった「日の呼吸」の使い手であった継国縁壱は、定命の「人間」として死んだ。
執着の心で生き続けている無惨や、「人間」であることを捨てて「鬼」として個体での永遠の強さを追い求めた兄の黒死牟(継国巌勝(つぎくに・みちかつ))とは違って。
ハジマリから派生し、多様性へと咲いた大正時代の「鬼殺隊」の剣士たちが源流の部分で共有していたのは、「人間」は死ぬ、という当たり前のことだったのだと。
(『鬼滅の刃』20巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
- 「鬼殺隊」の一般隊員たちが命を賭して壁となり「柱」たちを守り
- 物語の序盤では炭治郎と反目したりもした伊黒小芭内、不死川実弥(しなずがわ・さねみ)、悲鳴嶼行冥といった「柱」たちが次々と助っ人に現れ身をていし
- 嘴平伊之助、我妻善逸、栗花落カナヲといった深いところで繋がり合い炭治郎と共に跛行の旅路を歩んだ同世代の仲間たちも最後に駆けつけ、炭治郎は「受け継ぎ」のもとで伝承された対鬼舞辻無惨決戦闘法である「ヒノカミ神楽」を舞い続ける
……と、最終戦で「死」という定命の定めを共有している「人間」たちが「連帯」して戦っていく展開は熱すぎます。
「死」を共有しているからこそ、我々は「平等」で、妬み無く「連帯」できる側面があります。
この点が、「人間」と「鬼」は非対称です。
「鬼」は、鬼舞辻無惨が絶対的に生きて、配下の鬼は死ぬ(無惨と配下の鬼の関係は非対称)。「人間」は、みんな死ぬ(「人間」同士は誰しも「平等」)。
ここまで「転生」というキーワードを掘り下げてきましたが、世界観として「転生」するということは、逆にいうと、この世界(今生)においては「みんな死ぬ」ということを「人間」側は共有しているということです。
根底のところで深く「共有」しているものがあるから、「人間」は「連帯」できる。
強い者も、富める者も、モテる者も、「人間」だったらみんな最後には「死」がおとずれる。
この感覚はある意味「安心」に繋がります。「5-1」で考察したとおり根底のところで、「人間」は「平等」だということなので。
(『鬼滅の刃』8巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
『鬼滅の刃』の「人間」たちは、「みんな死ぬ」という平等性のもとで「連帯」している。
煉獄杏寿郎が言っていたところの、
老いることも死ぬことも人間という儚い生き物の美しさだ
老いるからこそ
死ぬからこそ
堪らなく愛おしく尊いのだ
強さというものは肉体に対してのみ使う言葉ではない
(『鬼滅の刃』8巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
……を共有していたからこそ、やがて「死ぬ」者同士「連帯」しあえる。
そうなると、鬼舞辻無惨は「老いもせず死にもしない生に執着し続ける存在」ということで、「老いるからこそ死ぬからこそ堪らなく愛おしく尊いのだ」とは真逆ですから、煉獄杏寿郎が想い描いた「人間」の美しさを証明するためにも、滅する必要があるという話となります。
「転生」、「助け合い」、「受け継ぎ」の「人間」の3項目を共有した上での「死」=「老いるからこそ死ぬからこそ堪らなく愛おしく尊い」の共有にもとづいた「連帯」によって、「不安」をかきたてる総本山である鬼舞辻無惨を滅する。
この一連の流れこそがカタルシスをもたらし、読者に鬼舞辻無惨(=「不安」の象徴的根源)の消滅という「安心」をもたらすメカニズムであると考察したいところなのでした。
5-3 最終回の解釈~みんないつか死ぬという平等の中で「人間」は日常を生きている
最終回、現代での日常が描かれます。
(『鬼滅の刃』23巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
今回のコラムで使っている言葉でいうのなら、「鬼」が滅せられて「安心」でいられる世界であるのですが。
一つの時代を生きた「人間」たちの子孫が生きている、あるいは一つの時代を生きた「人間」が「転生」している、ということは、逆説的に一つの時代を生きた「人間」たちはみんな死んだということでもあります。
人間は、死にます。
でもだからこそ「平等」ですし、「生まれ変わり」を想像したり、「受け継ぎ」を行ったり、儚い存在同士「助け合ったり」します。
「鬼」が滅せられて「死」という平等性が回復された最終回で描かれる世界は、どこか寂しいけれど、温かい。
(『鬼滅の刃』23巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
不思議な残留感を胸に『鬼滅の刃』という物語を読み終えて、読者はそれぞれの現実へと帰還します。
6、まとめ
今回の記事では、
漫画『鬼滅の刃』は「転生する人間」と「不死である鬼」の対立構造の物語である……という前提を提示した上で、
劇中の「人間」と「鬼」を分ける要素を「転生」と「不死」という死生観の対立を基本としながら、下記の図のように6項目に分類し、
「転生」「助け合い」「受け継ぎ」「不老不死」「競争」「増殖」……という6項目を辿りながら我々読者の日々の「不安」も滅してゆくということを試みつつ……
最終結論として、
『鬼滅の刃』の物語を通して「人間」の「不安」が解消されるのは、「不死」という「人間」の根本をザワつかせる存在である鬼舞辻無惨を最終的に滅するカタルシスを通して、「人間」はみんな死ぬという「人間」の平等性が回復されるからである……という考察を展開させて頂きました。
『鬼滅の刃』を最初に読み終えた時、心を揺り動かされる激しい感動といった方向よりは、なにかしら調和が訪れたような自分の心の動きを感じました。
その時の感覚を今回のコラムでは「安心」という言葉で表現しました。
価値観が多様化した今の時代、万人に共通の「安心」のメカニズムを素描できるとまで言うつもりはありませんが、今回の記事を通して『鬼滅の刃』の新たな魅力・視点を開拓し、色々な出来事が起こる日々の中で、「不安」に代表されるような何かしらの「鬼」的なものを滅し、平和な日常を生きていくのにわずかでも寄与できましたなら一『鬼滅の刃』ファンとしても望外の喜びであるのでした。
相羽裕司(あいばゆうじ)
同ライターによる『鬼滅の刃』の考察記事第二弾です。炭治郎と禰豆子の関係について書いております。こちらも読んで頂けましたら喜びます〜。↓
「マンガフル」では主に今回のような「考察」記事を執筆させて頂いております。
ピンとくるコラムなどがありましたら、タイミングが合った時に読んで頂けたら喜びます~。↓
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