どうも。マンガフルライターの相羽です。
『鬼滅の刃』の炭治郎(たんじろう)と禰豆子(ねずこ)、イイですよね~。
僕は『鬼滅の刃』が大好きで、これまでに、
といった記事を書かせて頂いているのですが。
今回は、『鬼滅の刃』の主人公の竈門炭治郎(かまどたんじろう)と妹の竈門禰豆子(かまどねずこ)の関係について書かせて頂きたいと思います。
いきなり物語の前提を疑うようなイフの話、もしもの話をしてしまうのですが。
炭治郎って、禰豆子を見捨てていてもおかしくないと思うのですよ。
禰豆子が鬼になってしまった時点では、果たして彼女を人間に戻せるのかどうかなんてほぼほぼ分からない状態ですから。
第1話時点では、鬼というやっかいな存在になってしまった禰豆子のことを、炭治郎は果てしなく大変な想いをしながら、一生面倒をみなくちゃならないかもしれない。
未来にのしかかってくる不安、恐れ、重さ、そういったものから、禰豆子のことを見捨てて逃げ出したっておかしくはないと思います。
でも、そういう状況でも炭治郎は禰豆子を見捨てなかった。
兄妹愛といえばそれまでなのですが。
個人的には、二人の間にはもうちょっと深い何かがあるということを考察しております。
というわけで、今回は、二人の関係についてもっと理解したい! という気持ちを土台に置きながら。
家族の愛とはよく言うけれど、そもそも「愛」って何、というところから掘り下げつつ、二人の根底にあるものを紐解いていきたいと思います。
前回の記事では「不安」にフォーカスしつつ考察を展開させて頂きましたが。
現代の様々な「不安」に対して、ひとつの処方箋のように働くのもまた、「愛」という概念だと思います。
うーん。「愛」、そりゃあった方がイイけれど。
今回は『鬼滅の刃』作中で描かれているある「愛のかたち」について考察を加えさせて頂くので。
本記事の考察を読み終える頃には、「愛」という概念について、炭治郎と禰豆子の関係について、より理解できるように書いてみましたので、ぜひぜひ一読して頂けたら幸いなのでした。
漫画『鬼滅の刃』全編の物語を前提に炭治郎と禰豆子の関係を考察・解釈するという記事の性質上、ここから先の文章には、コミックス全23巻の最後まで、および公式ファンブック『鬼殺隊見聞録』の内容のネタバレが含まれている点をご了承頂けたらと思います。
特に、アニメ版を中心に作品に触れていたという方へ。 アニメ『鬼滅の刃』TVシリーズ第1期(「立志編」)はおおよそ第1巻~第6巻の内容まで、映画『劇場版「鬼滅の刃」 無限列車編』及びTVシリーズ「無限列車編」はおおよそ第7巻~第8巻の内容まで、TVシリーズ「遊郭編」は第9巻〜第11巻のストーリーで制作されています。
本記事のここから先には、第12巻以降(「刀鍛冶の里編」以降)から物語が完結する最終・第23巻までの完全なネタバレが含まれます。
個人的には、最初はネタバレゼロの状態でこの素晴らしい物語に触れて頂きたいと思っているので、アニメ版を中心に作品を追っていたという方は、この時点で引き返して頂けたら幸いです。
目次
1、『炭治郎(たんじろう)』と『禰豆子(ねずこ)』ってどんなキャラクター?
作品名 | 鬼滅の刃 |
---|---|
著者 | 吾峠 呼世晴 |
出版社 | 集英社 |
掲載雑誌 | 週刊少年ジャンプ |
掲載期間 | 2016年~2020年 |
巻数 | 全23巻 |
ジャンル | 血風剣戟冒険譚 |
竈門炭治郎と竈門禰豆子は、漫画『鬼滅の刃』の物語の中心を担う兄妹です。
炭治郎は炭売りをしながら、禰豆子やさらに下の弟や妹、母も含めて幸せに暮らしていましたが、ある雪の日に鬼に家族を惨殺されてしまいます。
唯一生き残った禰豆子も鬼に変えられてしまう。
炭治郎は禰豆子を人間に戻す方法を探しながら、鬼と戦う組織「鬼殺隊」へと入隊し、家族の仇であり鬼の首魁(しゅかい)でもある鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)を討伐するために、戦いの旅へと身を投じていきます。
鬼となり太陽の下では生きられなくなった禰豆子を大事に想い続ける炭治郎と、鬼になっても人を食べずに炭治郎と共に鬼と戦う禰豆子。二人の関係は、『鬼滅の刃』の核(コア)となっています。
2、『鬼滅の刃』は炭治郎と禰豆子の「無条件の愛」の物語である
『鬼滅の刃』で炭治郎が禰豆子を見捨てなかったのは、二人の間に「無条件の愛」があるからである。
まず、この結論を最初に提示いたします。
その上で、
- それはどういうことなのか?
- 「無条件の愛」って何なのか?
- どのように描かれているのか?
ということをこれから語っていきます。
僕が観測してる範囲で、『鬼滅の刃』は仏教のお坊さんにもけっこう人気があったりします。
今回ちょっとだけ参考にしているのは、仏教の宗教的な側面というよりは、哲学体系としての側面だったりするのですが。
例えば神話学者のジョーゼフ・キャンベルは仏教でいういわゆる「悟り」について、このように書いていたりします。
—
悟りとは、万物─時間の幻のなかで、裁きによって善と見なされるものだけでなく、悪と見なされるものも含めてすべて─を貫いている永遠の輝きを認めることです。ここに至るためには、現世の利益を願い、それらを失うことを恐れる心から、完全に脱却しなければなりません。
(『神話の力』 ジョーゼフ・キャンベル・ビル・モイヤーズ 飛田茂雄・訳/早川書房 より引用)
—
僕はキャンベルの本の愛読者ですが、正直彼が仏教の深奥や悟りについて書いてる箇所が、十分に理解できてるとは言えません。
ですが繰り返し読んでると、「条件付き」の関係が支配的な現実世界とはちょっと違う、「無条件」で人と人が関係し合える次元のようなものがあるのであろうというのは、直感的には感じられるようになってきます。
炭治郎が「悟り」の状態にあるのかまでは分かりませんが。(ライターである僕自身が「悟り」の状態にないので。)
炭治郎と禰豆子の関係が、相手を支配しようとしたり、支配されたりといった、エゴをむき出しにした関係とはまったく異なる尊い何かであるというのは、『鬼滅の刃』を最後まで読んだ読者の皆さんであればほぼほぼ感じたところであると思います。
そんな、もしかしたらたとえば宗教的な高みに位置付けられるような精神性で構築されているかもしれない炭治郎と禰豆子の関係を、もうちょっと素朴な現実の言葉に落とし込んで理解したい。
本記事では、そのあたりの二人の間にある尊い何かを、着実なステップを踏みながら読み解いていってみたいと思います。
2-1 「無条件の愛」とは体が不自由となる類の困難があってもその人と一緒に生きていきたい気持ちである
最初に「無条件の愛」という言葉を何気なく使ってしまいましたが、ここからまず、この概念を掘り下げて定義したいと思います。
第一に、
困難が訪れた時に、変わらずに一緒に生きていけるというのは、「無条件の愛」のひとつの性質だと思います。
いわゆる、結婚式で新郎新婦の間で交わされる定型句、
「病める時も健やかなる時も…」
のイメージですね。
私事で恐縮ですが、ライターの母は長いこと半身不随で体が不自由な状態です。
そんな母を父は18年ほど手伝って生きていて、「嫌だと思ったことはない」と言っていたりするので、自分の両親のことながら、困難な状況でも継続できる愛ってあるんだな……と思っていたりします。
僕の母のことに少し触れたのはもちろん『鬼滅の刃』の考察に生かすためで、僕はそういう個人的な背景もあり、最初に『鬼滅の刃』を読んだ時、鬼になって色々不自由になってしまった禰豆子を見捨てず、炭治郎が背負っていくシーンのところで、
鬼になって色々と不自由になってしまった禰豆子=Disabled(障がいがある人)
という比喩が少なからずあるのではないだろうかと思ったのです。
(『鬼滅の刃』1巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
体が不自由になったのなら、面倒をみるのが大変なのでもう愛さない、というのは「条件付きの愛」です。
一方で、体が不自由であろうがなかろうが、関係なくその人そのものを愛していてずっと一緒にいたい。そういう気持ちは、「無条件の愛」の愛であろうと思います。
禰豆子は鬼になって陽の光にも当たれなくなってしまったし、明瞭には言葉も話せなくなってしまったし、移動の際には籠で背負わなくてはならなくなってしまった。
それでも、炭治郎は禰豆子と一緒にいたいと思っている。これは「無条件の愛」です。
というわけでまず、
「無条件の愛」の定義:体が不自由になるといった困難な状況になったとしても、その人そのものを愛していて変わらずに一緒に生きていたいと思い続けられる類の心
……というものを一つ提示したいと思います。
2-2 婚活も!?現実世界では「条件付きの愛」がけっこう多いのを確認してみる
続いて、前節で焦点を当てた「無条件の愛」をよりくっきりと理解するために、この節では逆に「条件付きの愛」がけっこうちまたではあふれているという部分に触れてみたいと思います。
美術では、「白」を際立たせるためには「黒」を使います。
「条件付きの愛」の方をみてみることで、逆に炭治郎と禰豆子の間にある「無条件の愛」の美しい部分がはっきりと理解できると思います。
さて、現実の方で「あるある」な「条件付きの愛」ですが、パートナー(恋人や夫/妻など)に対して、「これこれをやってあげるから、これこれをしてほしい」みたいな態度をとる志向性は、全て大きくは「条件付きの愛」になってしまいそうです。
- 高価なダイヤ(宝石)をプレゼントしてくれたら、愛してあげるとか。
- 容姿が美しいままであるのなら、愛しているとか。
- あるいは、お金をくれる限りにおいては、一緒にいてあげるとか。
こういうのが増えてくると、どんどん「条件付きの愛」側になっていってしまいそうです。
体が不自由になってしまったのなら、面倒だからもう愛さない。
の方に、けっこう近づいていってしまいます。
より具体的なイメージとして想起しやすい現代の例としては「婚活」のある種の側面を考えてみると、「条件付きの愛」についての思索が深まるかもしれません。
ライターは必ずしも「婚活」を否定したりはしませんが(「きっかけ」として上手く機能して、やがて「無条件の愛」に至った二人が結婚する……みたいなパターンもあり得ると思います)、パートナーに求める「条件」が、容姿、年収、身長、などなどとかばかりになってきてしまうと、
- 容姿が美しいのだったら、愛してあげる。
- 年収が高い限りにおいては、愛してあげる。
- 一定の身長という「条件」をクリアしたのなら、愛してあげる。
みたいに、本当に「条件付きの愛」側に近づいていってしまいます。
そういうのは、我々読者が『鬼滅の刃』の炭治郎と禰豆子の関係に感じた、「無条件の愛」の関係とはなんか違うよな、というのは直感的に感じて頂けると思います。
(炭治郎が若くて美人な限りは禰豆子と一緒にいてあげると言ったり、禰豆子が一定の年収がある限りにおいて炭治郎と一緒にいてあげるとか言い出す……みたいなのを想像すると、ちょっと「引いて」しまいますよね……)
「条件付きの愛」とは:「これこれをやってあげるから、これこれをしてほしい」と「条件」を満たせるかどうかで「愛するか/愛さないか」が変わってしまう類の愛
……というのを本節では確認しておきたいと思います。
2-3 炭治郎と禰豆子の間にはお互いがお互いの「居場所」である「無条件の愛」がある
「2-1」で、「無条件の愛」の定義の一つに、「体が不自由になるといった困難な状況になったとしても、その人そのものを愛していて変わらずに一緒に生きていたいと思い続けられる類の心」というのを設けましたが。
これは、別の側面からみると、自分自身にも「条件」を求めないということです。
つまり、「ありのまま」の自分でいられるということ。
自分を様々な「条件」で武装しなくても、この人の隣になら、「ありのまま」の自分でいられる! そういう「居場所」のような人がいるのだとしたら、その人はあなたにとってとても大事な人です。
そういう「居場所」のような存在が、炭治郎にとっての禰豆子であり、禰豆子にとっての炭治郎です。
例は分かりやすいように現代のものにしてしまいますが、
- お金持ちになりたいとか、
- 影響力を持ってバズりたいとか、
- 勝利して賞賛を得たいとか、
炭治郎がそういう価値観が上位の人間だったとしたら、最初に禰豆子を見捨てていたと思います。障がいがある人間と共に生きていくというのは、そういった「条件」で武装した自分にこそ価値があると思い込んでいる人間にとっては、「条件」を手放さないといけないことに耐えられないからです。
しかし、炭治郎は禰豆子を見捨てなかった。
(『鬼滅の刃』1巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
つまり、炭治郎の中にはお金持ちになりたいとか以外の動機があったことになります。
すなわち、炭治郎は「お金」「影響力」「名誉」などなどといった「条件」で武装した自分でなくても、「ありのまま」の自分にとって「ありのまま」の禰豆子の隣にいることが「居場所」であると直覚していたということです。
このような二人の間にある関係の引力の名称は、やはり「無条件の愛」という言葉が当てはまると思います。
というわけで、さらに踏み込んだ定義として、
「無条件の愛」の踏み込んだ定義:「ありのままの自分」でお互いがお互いの「居場所」であると思えるような関係で感じられる相手への無償の優しさ
……というものも本節で設けたいと思います。
そう言われると、大事なものである気がしてくる「無条件の愛」。
この概念について核心に迫る前に、次節では理解を深める準備として、そもそもの「愛」という概念について、作中で描かれているある対照構造から掘り下げていってみます。
そう言われると愛って何だろう? といったことを考えてしまうタイプの方には、必読の内容となっていると思います。
3、「条件付きの愛」で無惨に支配される堕姫と「無条件の愛」で炭治郎と対称でいる禰豆子は対照されている
『鬼滅の刃』において、炭治郎と禰豆子の兄妹と対照構造で描かれているのは、妓夫太郎(ぎゅうたろう)と堕姫(だき)の兄妹です。
ざっくりとは、
- 「無条件の愛」側が炭治郎と禰豆子で、
- 「条件付き愛」側が妓夫太郎と堕姫(梅)です。
この二組の兄妹のどこが「対照」されているのかを見ていくことでより「愛」についての理解が深まるので、本節では特に女性の方、堕姫と禰豆子に注目しつつ見ていってみましょう。
3-1 堕姫は鬼舞辻無惨に「条件付きの愛」で「支配」されている
堕姫は、鬼舞辻無惨に「条件付きの愛」で支配されています。
やや複雑なのですが、堕姫(梅)は「愛」の対象がかつては妓夫太郎だったものが、過酷な経緯を経て現在では無惨へと置き換わっているというキャラクターです。
無惨が堕姫のもとを訪れる、「遊郭編」序盤のシーン。
無惨はありのままの堕姫そのものではなく、
- 人間をたくさん食べている
- ゆえに強く、無惨の役に立つ
という堕姫が無惨にとっての「条件」を満たしている点を評価します。
(『鬼滅の刃』9巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
無惨と堕姫の関係を表している絵も「上下」になっていて、無惨の方が堕姫を「支配」しているのが伝わってきます。
このシーンの直前の台詞はこうです。
「お前は誰よりも美しい そして強い柱を七人葬った」
まさに「美しい」という「条件」を満たしている限りは愛してやる。強いという「条件」を満たしている限りは愛してやる。と言っているわけです。
(ちなみに「七人」のように「数字」が出てくると、「条件付きの愛」感が増してきます。ある「数字」のラインを越えられたら愛して越えられなかったら愛さないみたいなのは、生々しい「条件付きの愛」です)
炭治郎が鬼になってしまって美醜でいえば醜側によったとしても禰豆子を愛していたこと、鬼になって強くなったとはいえ、禰豆子の強さではない部分を愛していること(もちろん、鬼を何体倒したから愛してるというような態度はとらない)などとは、対照的であることが分かります。
鬼舞辻無惨と堕姫との関係では、典型的な「条件付きの愛」が描かれているのです。
3-2 禰豆子は「鬼」になっても「無条件の愛」で炭治郎と「対称」のまま共に戦う
一方で、炭治郎と禰豆子の関係は、お互いがお互いに特に「条件」を求めていません。
炭治郎の側から禰豆子に、美しい「条件」を満たしているなら愛してやるとか、強くて戦力になるという「条件」を満たしているなら愛してやるとか、そういうのが一切ないですし。
禰豆子から炭治郎に対しても、自分を守ってくれるという「条件」を満たしてくれるなら愛してあげるみたいなのは、全くありません。
ビジュアル的にも、炭治郎と禰豆子の関係が「対称」であるのを表現している絵は多いです。
(『鬼滅の刃』15巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
これは、前節の鬼舞辻無惨と堕姫が絵的にも上下の関係で描かれているのとは対照的です。
吾峠呼世晴(ごとうげこよはる)先生が、意図して炭治郎と禰豆子には絵の表現としても「対称」を用いているとまで強くは主張しませんが、前節の無惨と堕姫の関係に比べると、炭治郎と禰豆子は「上下」関係ではなく、並んで一緒に戦ってるとかお互い同じ目線で向き合っているイメージが強い点は、『鬼滅の刃』を最後まで読んだ読者さんでありましたら、感じて頂ける部分だと思います。
「条件付きの愛」を見てみることで、「対照」的にくっきりと浮かび上がってくる、炭治郎と禰豆子の「無条件の愛」が表現されたカタチとしての、「対称」で戦う二人だと思います。
3-3 もっとも妓夫太郎と堕姫(梅)の方も最後には「無条件の愛」が回復する様が描かれている
どうしても言及はしておきたくて、一節設けさせて頂きます。
妓夫太郎と堕姫(梅)の関係は、炭治郎と禰豆子の間にある「無条件の愛」と対照的に「条件付きの愛」だったと前節で述べましたが。
- 妓夫太郎と堕姫(梅)の間にも幼少期は「無条件の愛」があったこと
- 最後に、妓夫太郎と堕姫(梅)は「無条件の愛」を取り戻していること
については、書き記しておきたいと思います。
炭治郎たちに敗れた妓夫太郎と堕姫は、首だけになってもまさにエゴを剥き出しにして「条件付きの愛」が前提だったような言い争いをしてしまうのですが。
曰く。
堕姫から妓夫太郎に対しては、
「この役立たず!! 強いことしかいい所が無いのに 何も無いのに 負けたら何の価値もないわ 出来損ないの醜い奴よ!!」
妓夫太郎から堕姫に対しては、
「出来損ないはお前だろうが 弱くて何の取り柄も無い お前みたいな奴を今まで庇ってきたことが心底悔やまれるぜ」
という感じです。
ここまでは、まさに「条件付きの愛」における「条件」が決壊したがゆえの破滅です。
しかし、物語的に走馬灯のように挿入される過去の回想において、幼少期には炭治郎と禰豆子のようにお互いがお互いを「無条件の愛」で想い合う関係だったことが明らかとなります。
(『鬼滅の刃』11巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
最後に、炭治郎から
「仲良くしよう
この世でたった二人の兄妹なんだから
君たちのしたことは誰も許してくれない
殺してきたたくさんの人に恨まれ憎まれて罵倒される
味方してくれる人なんていない
だからせめて二人だけは
お互いを罵り合ったら駄目だ」
と声をかけられたのをきっかけに始まる過去との再会の回想をとおして、妓夫太郎と梅は「無条件の愛」に基づいた関係を取り戻します。
この世とあの世の境界的な不思議な場所で、梅は妓夫太郎に「明るい方」へ行けとうながされますが、「離れない!! 絶対離れないから ずっと一緒にいるんだから!! 何回生まれ変わってもアタシはお兄ちゃんの妹になる絶対に!!」と、妓夫太郎についていきます。
罪を犯した者が死後に向かうのは地獄のような場所だとしても、妓夫太郎に梅はついていく。一緒にいたい。この魂のレベルにまで回帰したかのような状態で、ようやく妓夫太郎と梅は「無条件の愛」の関係を取り戻したのだ、というのが描かれているのだと思います。
子どもの頃にはあった「無条件の愛」が、大人になっていく過程の過酷な出来事(妓夫太郎と梅だったら鬼になる経緯)の中で失われ、その失われていた「無条件の愛」が炭治郎と禰豆子から伝播して、最後にまた取り戻すという流れです。
現実を生きる読者たる我々も。『鬼滅の刃』の物語を読むことをとおしていつの間にか忘れていた(そして、子供の頃は持っていたという感覚がある方も多いのではないかと思います)「無条件の愛」と「再会」するのかもしれません。
4、炭治郎が禰豆子を見捨てなかったのは「原風景」を通して二人の間に「無条件の愛」があるから
本記事のこれまでで語ってきた、炭治郎と禰豆子の間にある「無条件の愛」は、あるイベントをとおして獲得したものとしては描かれていません。
物語冒頭の時点で、既に二人の間にあったものとして描かれています。
なので、物語論を語るように、ここでこーなって二人の間に「無条件の愛」が生まれた! という感じに語ることはできないのですが。
色濃く二人の間に「無条件の愛」があった。もともとあったのだということが描かれているシーンを指摘することはできます。
以下、記事の最後に、二人の「無条件の愛」に関してもっとも核心的な場面を三つ見ていってみましょう。
4-1 炭治郎と禰豆子の「無条件の愛」の原風景~綺麗な着物よりも大事なものを共有するある対話
僕が、炭治郎と禰豆子の「無条件の愛」にまつわる原風景が描かれている箇所だとずっと思っていたのはこちらのシーンです。
第1巻という、キャラクターの行動原理を描いている段階で挿入される、炭治郎と禰豆子の過去の回想です。
着物を繕っている禰豆子に対して、炭治郎が「また着物を直してるのか 買わないとだめだな 新しいのを」と声をかけるのに対して、禰豆子は「いいよいいよ 大丈夫 この着物気に入ってるの それよりも下の子たちに もっとたくさん 食べさせてあげてよ」と返します。
(『鬼滅の刃』1巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
表面的な心理の部分では、年頃の女性として禰豆子にも新しい着物を買ってほしいという気持ちはあるのだろうと思います。
しかしここでは、禰豆子は、自分が兄を愛しているのは、綺麗な着物を買ってくれるからとか、何らかの「条件」を満たしてくれるからではないんだよ、と。より深層的な部分で大事にしている部分を表明して、「無条件」で炭治郎や家族を愛しているのだよ、というサインを返しているのです。
禰豆子が持っていた、ほのかな優しい気持ち、それが出発点です。起点は禰豆子なのです。
それが、大人になる過程でいつの間にか「条件付きの愛」の文脈で生きるようになってしまっていた人間たちに、「無条件の愛」との再会を促していく。
たとえば、本記事でここまであげた部分だと、
禰豆子→炭治郎→妓夫太郎と梅
とこの流れは伝わっていく。
『鬼滅の刃』は、このような「無条件性」の伝播の物語であると言えるかもしれません。
4-2 「刀鍛冶の里編」のクライマックスでは炭治郎と禰豆子の「無条件」の献身が描かれている
愛が「条件付きの愛」になってしまう根本は、エゴです。
エゴを手放せないから、あるいはある程度あってもいいのですが大きくなってしまっているから、「条件」で相手を支配して自分のエゴを押し付けたくなってしまう。
「条件付きの愛」を脱して「無条件の愛」の領域にある炭治郎と禰豆子においては、「刀鍛冶の里編」のクライマックスで明確にエゴを手放しているシーンが描かれています。
強敵、半天狗との戦いの終盤。炭治郎は逃げる半天狗を追ってトドメを刺さなくては村の人たちが殺されてしまう、しかし太陽が昇ってきていて禰豆子は焼かれ始めてしまう。一般人の命か、禰豆子かという究極の選択を迫られます。
決断できないでいた炭治郎を、禰豆子の方から蹴り出して半天狗のトドメへ、村人たちの救済へと送り出します。
(『鬼滅の刃』15巻 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
この時、鬼になっていて通常の人間の心の状態ではなかったとはいえ、深いところに心が残っていると描かれてきた禰豆子にとって、ここで炭治郎を送り出せば自分が消滅するということは分かっていたはずです。
明確に自分というエゴを手放しても(つまり究極的に自分が死んだとしても)、炭治郎に自分の使命を全うしてほしかったのです。直接的には村人たちを守るためということになりますが、ここはそれ以上に禰豆子は炭治郎の心を守りたかったのだと解釈したいところです。
綺麗な着物をくれるという「条件」を満たしたら愛してあげるといった「条件付きの愛」どころか、「条件」を受け取る主体である自分自身を手放してでも、その人がその人の生きる道を全うしてほしいという願い。実際に献身する行動。
禰豆子から炭治郎への気持ちは、エゴを手放したところにある「無条件の愛」の領域にあるものだというのが描かれていたシーンだと思います。
4-3 炭治郎と禰豆子の旅の終わり〜「無条件の愛」で一緒にいた家族と再会して物語は閉じる
最後に、炭治郎と禰豆子の物語の結末のシーンについて言及しておきます。
最終巻の内容までのネタバレが前提であると前置きして進めてきた記事でありますが、本当に最終巻の最後の方のシーンについて語っておりますので、まだ読んでないという方は、ここから先は絶対に読まないようにして頂けたらと思います。
『鬼滅の刃』という物語は、あの雪の日に家族を無惨に惨殺された炭治郎と禰豆子が、その日バラバラになって失ってしまったものを、最後に取り戻すまでの物語です。
炭治郎と禰豆子が失ってしまったものとは何なのか?
それこそが「無条件の愛」であり、この物語は「無条件の愛」を取り戻すまでの物語であると本記事をまとめたいところなわけですが、そういった抽象的なレベルよりも伝わりやすいかたちで、炭治郎と禰豆子が失い、最後に取り戻したものが具体的にも描かれています。
「4−1」で禰豆子の「無条件の愛」を示している箇所として引用したシーンで禰豆子が語っている言葉にもう一度注目して頂けたらと思います。
禰豆子は、
「それよりも下の子たちに もっとたくさん 食べさせてあげてよ」
と言っています。
「4−2」で書いたところの「献身」。自分自身が綺麗な着物のような「条件」を満たしてもらうよりも、「無条件」で優しさを渡してあげたい大事な存在。
それは、「家族」です。
炭治郎は鬼舞辻無惨との最後の戦いの中で、「帰ってどうなる 家族は皆死んだ 死骸が埋まっているだけの家に 帰ってどうなる」と惑わそうとする無惨に対して、「思い出が残ってる あの幸せな日々は 俺と禰豆子がいる限り消えない だから帰る」と答えていました。
あの雪の日に失ってしまった「家族」と、炭治郎と禰豆子が、鬼舞辻無惨の打倒という大願を成就し、最後に幾つかの高次の意味で再会するシーンが最後に描かれています。
最後のお墓参りのシーンですね。
(『鬼滅の刃』23巻(最終巻) 吾峠呼世晴/集英社 より引用)
喪われてしまったけれど、かろうじて残された炭治郎と禰豆子の「家族」という関係を、繋いで、繋いで、最後に(精神的な意味でということになると思いますが)「家族」ともう一度再会するまでの物語なのです。
綺麗な着物でもなく、強さでもなく、無限の命ですらもなく。炭治郎と禰豆子が最後に手に入れたもの。
手に入れたというよりは、再会したもの。
失ってバラバラになってしまったと思っていたけど、ずっとそこにあったもの。
「無条件の愛」とは、「家族の愛」を昇華したものであるといえるかもしれません。
『鬼滅の刃』と「家族」というテーマに関しては、本格的に語り始めるとさらに考察記事が何本も必要となる題材なので、本記事では深くまでは踏み込まず今後の話に譲りたいと思います。
とりあえず本記事で、最初に問いとして提示した
「なぜ炭治郎は禰豆子を見捨てなかったのか?」
という命題に関しては、
「家族の愛」の志向性を深めたかたちの、「無条件の愛」が二人の間には途切れずに存在し続けたから、
というのを解答として提示したいと思います。
5、まとめ
今回の記事では、『鬼滅の刃』では、状況的に炭治郎は禰豆子を見捨てていてもおかしくなかったのに、炭治郎は禰豆子を見捨てなかった。それはなぜか? という問いを立てて、それは炭治郎と禰豆子の間に「無条件の愛」があったからだという解答を提示しました。
その上で、
- 特に堕姫と禰豆子の「対照」を追うことで「条件付きの愛」と「無条件の愛」の違いの輪郭をよりくっきりとさせ
そもそもの「愛」という概念を深掘りしていきながら。
加えて、『鬼滅の刃』の作中では、
- 綺麗な着物という「条件」よりも炭治郎や家族への「無条件」の愛を大事にする原風景的な禰豆子のシーンや
- 『刀鍛冶の里編』終盤での自分の存在そのものよりも炭治郎を進ませることを優先するような禰豆子のエゴを手放しているかのような「無条件」性が伝わってくるシーンなど
が描かれていることを確認して、二人の間にあるのは「無条件の愛」であるという本記事での解答を傍証した上で。
最終的に、『鬼滅の刃』の炭治郎と禰豆子をとおして描かれている「無条件の愛」という関係は、「家族」の愛を昇華した志向性のものであるという、今後の考察でより深めることができるかもしれない視座の提示を付加しました。
記事中でも触れたように、今回扱った「無条件の愛」のようなものは、それこそ「家族」に包まれているのが無標であった子どもの頃は胸に持っていた人が多いと思います。
それが、大人になる過程で過酷な現実と相対していくうちに、いつの間にか忘れて、「条件付きの愛」の方が自分の中で大きくなってしまっていたりする……という流れが多いのかと思います。
近年の新型コロナ禍などをとおして、人と人との繋がりについて改めて見直す機会が増えたといった言説が多い昨今。
人と人の繋がりの根幹である「愛」について、もう一度考えてみるということは実際増えているかもしれません。
そのような時代において。
『鬼滅の刃』では炭治郎と禰豆子をとおして「無条件の愛」との再会の物語が描かれているのだという本記事の主眼が、あなた自身もここから「無条件の愛」と再会する方向で「愛」について考えてみることができる、という視座を想起する一助になれましたなら、望外の喜びであるのでした。
思っていた以上の長文となってしまいました。
ここまでお読み頂き、ありがとうございました。
相羽裕司
→炭治郎と禰豆子の物語の原点はなんと言ってもコミックス第1巻
→本記事で言及した妓夫太郎と堕姫(梅)の物語も堪能できるアニメ「遊郭編」Blu-ray
「マンガフル」では主に今回のような「考察」記事を執筆させて頂いております。
ピンとくるコラムなどがありましたら、タイミングが合った時に読んで頂けたら喜びます~。↓
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