どうも。マンガタリライターの相羽です。
日本の漫画作品の中でも、金字塔の一つである『ドラゴンボール』。
アニメ、映画、ゲームなどのメディアミックスが続いていることもあり、近年では世代を超えて愛される作品となってきております。
さかのぼること一年半ほど前。原作漫画に関して、
という記事を書かせて頂きまして、幸いなことにかなり多くの方に読んで頂けました。
ありがとうございます。
『ドラゴンボール』という作品のコアにあるキーワードの一つは「親子」だ、ということを前回の記事では語らせて頂いたわけですが。
その後また読んでいたら、追加見解としてもう一つ、どうやら「同族殺し」というキーワードが作品の核心近くにあるのではないか? というのに気がついたので、今回はその話を語ってみたいと思います。
読み進めていくうちに、『ドラゴンボール』ワールドが広がるなぁ~という感覚をちょっとでも感じて頂けたなら幸いです。
目次
1、『ドラゴンボール』ってどんな漫画?
著者 | 鳥山 明 |
---|---|
出版社 | 集英社 |
掲載雑誌 | 週刊少年ジャンプ |
巻数 |
全42巻(通常版) 全34巻(完全版) |
『週刊少年ジャンプ』にて1984年から1995年まで連載されていた、鳥山明先生による漫画作品です。
コミックスの国内売上部数は1億6000万部以上(2016年時点)で、国民的な作品の一つと言えそうです。
次々と現れる強敵たちと主人公の悟空が戦っていく……というバトル漫画の側面から語られることが多く、実際、鳥山明先生が描くバトル描写は後続の漫画家さんたちもお手本にしている方が多いくらい凄いのですが。
その点は押さえた上で、前回の記事と今回の記事では、『ドラゴンボール』ってバトルだけじゃないよね。ストーリーも深いよね、という視点から語っていくということをさせて頂いております。
2、『ドラゴンボール』は悟空が世界を「同族殺し」から解放していく物語として読み直せる
『ドラゴンボール』は悟空が世界を「同族殺し」から解放していく物語である。
どういうことか?
原作漫画『ドラゴンボール』の最終バトル、「魔人ブウ編」のVS魔人ブウ戦のラストでは、ベジータが悟空を認める……という印象的なシーンが描かれます。
(『ドラゴンボール』42巻 鳥山明/集英社 より引用)
サイヤ人同士で殺し合う、「サイヤ人編」の頃は「同族殺し」をやっていたベジータが、物語の最後では悟空(カカロット)を認めて「同族殺し」から解放されているのです。
2004年に発売されたコミックス「完全版」の第34巻では、通常版からわざわざベジータに関する表情&セリフの変更、カットの加筆などがあったりしますので。
作者の鳥山明先生としても、悟空とベジータの関係は『ドラゴンボール』という作品のコアの一つであると考えていたんじゃないかということが推察されるのですが。
この「同族殺し」をやっていた人間が、悟空を通して「同族殺し」から解放される……というストーリーライン。
ベジータの物語に触れてみましたが、どうもベジータだけでなく、丁寧に読んでいってみると『ドラゴンボール』という作品全編を通して、この「同族殺し」と「同族殺し」からの解放というストーリーが描かれている。
『ドラゴンボール』は「同族殺し」と「同族殺し」からの解放の物語として読み直せるというのが今回の考察の主眼なのです。
さっそく見ていってみましょう。
3、『ドラゴンボール』では「同族殺し」の恩讐にまみれた世界が描かれている
まず前提として、悟空に解放されるまでは、『ドラゴンボール』の世界は「同族殺し」の恩讐に満ちている様子が様々なカタチで描かれています。
前節では分かりやすい「サイヤ人」という「同族」で殺し合っていた事例を上げましたが、まずは言われてみると、作中のあの戦いこの戦い、あのバトルもこのバトルも「同族殺し」の要素をはらんでいるな……というのを確認していってみましょう。
3-1 ピッコロ大魔王ら魔族と神龍は実はナメック星を起源とする「同族」で殺し合っている
『ドラゴンボール』の物語で、最初に出てくる強大な敵といえば何と言ってもピッコロ大魔王です。
(『ドラゴンボール』12巻 鳥山明/集英社 より引用)
一見、人間VS魔族……という異なる種族同士の争いにみえる「ピッコロ大魔王編」ですが、よく読むと要所要所で「同族殺し」が行われているのが観えてきます。
たとえば、ピッコロ大魔王が神龍を殺すシーンです。
(『ドラゴンボール』13巻 鳥山明/集英社 より引用)
何故、このシーンが「同族殺し」なのか?
物語が進むと明らかになることですが、ピッコロ大魔王ら魔族と神龍はナメック星を起源とする「同族」なのです。
ゆえに、ピッコロが神龍を殺すシーンは、「同族殺し」を行っている場面として読むことができます。
(この時点ではピッコロ大魔王は神龍を「同族」起源の存在とは認識していないのもまた怖いところです)
そう言われてみると、『ドラゴンボール』という作品タイトルの作品ですが、神龍がドラゴンなのはイイとして、よく見るとピッコロ大魔王ら魔族のデザインもドラゴンっぽいということに気づきます。
(『ドラゴンボール』13巻 鳥山明/集英社 より引用)
ピッコロ大魔王はそこまでドラゴンっぽくないでしょうか。
でも、シンバルやピアノは、かなり外見もドラゴンっぽいとは感じませんか?
ピッコロ大魔王が生む時に「ドラゴンタイプ」ともろに言っているシンバルと……
(『ドラゴンボール』12巻 鳥山明/集英社 より引用)
ピアノ……
(『ドラゴンボール』12巻 鳥山明/集英社 より引用)
タンバリンも竜っぽい翼があったりしますし、総じてドラゴンっぽいです。
そしてピアノが死ぬシーンも、悟空が直接殺すのではなくピッコロ大魔王に巻き込まれるというニュアンスだったりします。
(『ドラゴンボール』13巻 鳥山明/集英社 より引用)
物語上、超神水の試練を超えてパワーアップした悟空の強さを見せるためのいわば試し割りとして機能する敵キャラクターは一人で良さそうなものですが、そちらはドラムが担当し、ピアノは「同族」のピッコロ大魔王に巻き込まれて死ぬ感じになっている。最終戦の場にいたピッコロ大魔王以外の魔族二人の役割を分けてきたところには意味を読み取りたくなります。
「ピッコロ大魔王編」はナメック星を起源とするドラゴンタイプの種族が、「同族殺し」を行っている編として読むこともできる。
まずはその点を押さえておきたいと思います。
3-2 サイヤ人同士の「同族殺し」が描かれるVSラディッツ戦は一旦のバッドエンドである
続いて「サイヤ人編」でも「同族殺し」が行われています。
こちらはサイヤ人同士の「同族殺し」で、顕著なのはVSラディッツ戦ですね。
ラディッツと悟空(というかカカロット)、本当なら「同族」のサイヤ人同士で殺し合ってしまいます。
(『ドラゴンボール』17巻 鳥山明/集英社 より引用)
で、VSラディッツ戦は「サイヤ人編」のストーリー全体では一旦のバッドエンドを描いていた箇所だと思うのですよ。
後述するように、悟空という主人公はどちらかというと「同族殺し」を解放していく役回りを担っているのですが、「サイヤ人編」のVSラディッツ戦のくだりまでは「同族殺し」に巻き込まれて苦しい戦いをしてしまいます。
珍しく悟空が精神的にも追い詰められてる箇所で、余裕がありません。
(『ドラゴンボール』17巻 鳥山明/集英社 より引用)
自分をかたくなに「ここ(地球)」の側であると主張して、味方である地球人と敵であるサイヤ人……というように敵味方で「境界」をきっちり引いてしまうのも、悟空らしくありません。
結果として、「同族殺し」の恩讐に巻き込まれて、VSラディッツ戦は「同族殺し」エンド。
(『ドラゴンボール』17巻 鳥山明/集英社 より引用)
それどころか、「同族共死に」エンドですね。主人公の悟空も死んでしまったということで、『ドラゴンボール』という作品全体でも分かりやすく描かれた一旦のバッドエンドだと思います。
では、VSラディッツ戦が「サイヤ人編」のバッドエンドだとしたら、トゥルーエンド、作品として本当に目指してほしい方向性として描いていた部分はどこだったのかは記事後半の「4-3」で考察します。
ここまでは、恩讐で「同族」で殺し合っている部分なので、ちょっと振り返ってみてもツライ部分ですね。
3-3 レッドリボン軍の人間同士の「同族殺し」の文脈を引き継ぐ人造人間たちも「同族」で殺し合っている
ここまでは「ナメック星人」同士、「サイヤ人」同士という、宇宙人同士の「同族」で殺し合っている状況を見てきましたが。
『ドラゴンボール』作中では、地球人同士、人間同士も殺し合っていたのを忘れてはいけません。
代表的な、人間同士の「同族殺し」が描かれているのは、ストーリー全体では序盤の方の「孫悟空少年編」のVSレッドリボン軍のあたりです。
(『ドラゴンボール』8巻 鳥山明/集英社 より引用)
レッド総帥を殺すブラック……の他にも、何か所か人間が人間を殺す場面が出てきます。
そんな、人間同士の「同族殺し」の文脈を継いでいるのが「人造人間・セル編」で描かれる人造人間同士の「同族殺し」です。
(『ドラゴンボール』30巻 鳥山明/集英社 より引用)
人造人間たちはレッドリボン軍が起源ですから、人造人間同士の「同族殺し」を通して、「孫悟空少年編」のレッドリボン軍戦の頃の人間同士の「同族殺し」を連想として浮かび上がらせているとも読めそうです。
VS魔族、VSサイヤ人、VSフリーザ……と、ストーリーが進むにつれて戦う相手のスケールが大きくなってから、いやいや、一番醜く「同族」同士で殺し合ってるのは人間だよね? とストーリーの後半に持ってきているのは、鳥山明先生なりの意趣返し的表現でもあったのではないか……などと深読みしてしまいます。
4、『ドラゴンボール』で「同族殺し」から世界を解放するのは悟空が持つ「大らかさ」である
前節で見てきた殺伐とした「同族殺し」が行われる世界。
そんな世界を解放していくのは、悟空が持つ「大らかさ」である。と、今回の記事では考察します。
悟空が「大らかさ」を持った主人公だというのは、『ドラゴンボール』を読んだ読者なら、感覚的に感じて頂けると思います。
本節では、では悟空が持ってる「大らかさ」で「同族殺し」がどのように解放されていくのか、もうちょっと踏み込んでメカニズムを語っていってみたいと思います。
4-1 悟空が「同族」という「境界」にこだわらない「大らかさ」を持っていることが度々描かれている
まずは前提として、悟空が「大らかさ」を持ってるな~というのが描かれているシーンを確認しておきましょう。
僕が特に好きなシーンはここです。
(『ドラゴンボール』32巻 鳥山明/集英社 より引用)
ピッコロがまだ「境界」にこだわって戦闘服を着るのを拒否してる一方で、悟空の方はナチュラルに「境界」を無効化していて、戦闘服を素で着ちゃいます。
(『ドラゴンボール』32巻 鳥山明/集英社 より引用)
それでいて、自分が戦闘服を着るからといってピッコロにも着るように強要するようなこともしません。まだ「境界」にこだわってしまうピッコロの態度自体にもオッケーを出してるという、本当に「大らかな」場面だと思います。
そう。「大らかさ」が「同族殺し」を解放するキーである理由の一つは、それは「境界」を無効化する態度だからだ、と本記事では考察します。
何故、「境界」が無効化されると「同族殺し」が緩和されるのか。
ここで、東京海洋大学客員助教授(2006年時点)のさかなクンが語ってる有名な話をちょっと引用してみます。
リアルの方に目を向けると、身近な「同族殺し」的なものとして「いじめ」というものがあったりします。
実際に殺人事件などにまで発展するケースもありますし、そこまでいかないとしても、学校、会社など、同じカテゴリに所属している「同族」同士が攻撃し合ってる状況とは捉えられそうです。
そんな「いじめ」に関して、さかなクンがこんなことを言っています。
—
でも、さかなの世界と似ていました。たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽(すいそう)に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃(こうげき)し始めたのです。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。
広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。
(中略)
ぼくは変わりものですが、大自然のなか、さかなに夢中になっていたらいやなことも忘れます。大切な友だちができる時期、小さなカゴの中でだれかをいじめたり、悩んでいたりしても楽しい思い出は残りません。外には楽しいことがたくさんあるのにもったいないですよ。広い空の下、広い海へ出てみましょう。
(朝日新聞 2006年 12月2日掲載より引用)
(太字部分はライターによる強調)
—
さかなクンの語ってる内容が、例えば心理学や認知科学でどう確証され得るのかを検証するだけの専門的な学識を、残念ながら僕は持っておりません。
しかし、直感的に「水槽」の中にいるよりはさかなクンがいう「広い空の下、広い海」にいるという認識の方が「大らかさ」があって、「いじめ」とか起こりにくいのかも? くらいには感じられます。
話をリアルの「いじめ」の話から『ドラゴンボール』という作品の話に戻しますと、悟空はさかなクンがいう「水槽」のような「境界」を無効化していく主人公としてとらえられそうだということです。
『ドラゴンボール』の「同族殺し」の構造は、最初は「地球」という狭い閉じた世界で、ドラゴンボールという有限の資源(7つに限られており、願いが叶うのも集めた者だけ)を人間という「同族」同士で奪い合っていたと捉えられます。
悟空によって「境界」が無効化されていくにつれて、さかなクンの話的には「いじめ」が少なくなっていく(かもしれない)ように、作中でも世界が「同族殺し」から次第に解放されていきます。メジナが「水槽」の外の世界に出ると「いじめ」をしなくなるように。
それまでは「境界」に遮られて狭かった人(の内面)&世界(の認識)が、水槽の中から海へ、次はもっと広い海へ、そして次はさらにその外の世界へ、みたいに広がっていって「大らかさ」を拡張させていくようになるのです。
では、そういった「境界」を無効化するような特性を持っている孫悟空という主人公は、どのような存在なのか?。
次節に続きます。
4-2 悟空の「大らかさ」の源泉は「地球育ちのサイヤ人」という「境界」の無効化をはらんだアイデンティティにある
悟空が素で「境界」を無効化して世界を広げていくような「大らかさ」を持っている源泉は、悟空というキャラクターの成り立ちそのものにあると、本記事では考察します。
悟空の存在、いわばアイデンティティを端的に表しているのが、以下の場面です。
(『ドラゴンボール』26巻 鳥山明/集英社 より引用)
前節でみた「サイヤ人編」のVSラディッツ戦の頃の「オラはここで育った孫悟空だ」に比べると、悟空の本来の「らしさ」が出ているシーンです。
「地球育ち」がけっこう大事で、悟空の人格形成には祖父の孫悟飯の影響があるようです。
「サイヤ人」的な狂暴さが落ち着いた要因の一つは、頭を打ったことと語られていますが。
(『ドラゴンボール』17巻 鳥山明/集英社 より引用)
同時に養育していた孫悟飯が持つ「大らかさ」も関係していると考えます。悟空、お祖父ちゃん大好きですからね。
(『ドラゴンボール』9巻 鳥山明/集英社 より引用)
つまり、サイヤ人だったんだけど地球人として育てられたというルーツを持っている悟空は、幼少時に既に「越境」を経験しており、ゆえに本質的に「境界」の無効化を体現しているキャラクターであると考察するのです。
悟空はもう、「境界」を無効化してどんどん世界を開いていくのですね。先のさかなクンの話の例で言うなら、どんどん水槽を壊して広い海へ出ていくように。
次節では「境界」が無効化されることによって生じる「大らかさ」とは具体的には何なのかという点をもう少し考察してみます。
4-3 悟空の「大らかさ」とは言い換えると「許す」ことに気軽にオッケーを出す態度である
「大らかさ」を持っている結果が、具体的に悟空のどういう態度・行動に現れているかを考察してみましょう。
この点は、
- 悟空は「許す」ことに気軽にオッケーを出す態度を持っている。
- それゆえに「大らかさ」が伝播して「同族殺し」は解放されていく。
と考察したいと思います。
悟空は「境界」にもこだわらないので、自分とは「族」や立場を異にする相手、「境界」の向こう側にいる相手でも許すことに気軽です。「境界」が良い意味でゆるいので、敵とか味方とかの区分力がそもそもゆるいのだと思います。
以下、悟空が「許す」シーンを見ていってみますが、本当に作中にはたくさんの「許す」シーンがありますね。
ナメック星を起源とするドラゴンタイプ同士の「同族殺し」の文脈にいたマジュニアも。
(『ドラゴンボール』17巻 鳥山明/集英社 より引用)
マジュニアを許します。
続いてサイヤ人同士の「同族殺し」も「許す」ことによって変わっていきます。
「3-2」で、VSラディッツ戦はバッドエンドルートだと語ったのですが、ではトゥルーエンドルートに入る要素とは何だったのか?
それは、悟空がベジータを殺さなかった部分だと思います。
(『ドラゴンボール』21巻 鳥山明/集英社 より引用)
つまり「サイヤ人編」というのは、悟空(カカロット)とラディッツで「同族殺し」を行ってしまったバッドエンドから、悟空(カカロット)がベジータを許す、「同族」を許すことでトゥルーエンドへの一歩を歩みだすまでの物語だったと解釈できるということです。
ラディッツ戦のときは、いったん悟空が「許し」のような態度をとるもラディッツに裏切られ、最終的にはラディッツを殺してしまいます(正確には悟空とラディッツの共死に)。
(『ドラゴンボール』17巻 鳥山明/集英社 より引用)
一方で、ベジータ戦の時は、最後までベジータを生かしきります(悟空もベジータも共に生き残る)。
(『ドラゴンボール』21巻 鳥山明/集英社 より引用)
ラディッツの時は「許す」ことを完遂できなかった悟空。
ベジータの時は「許す」ことが達成できた悟空。
言葉を加えるなら、こうも言えそうです。
悟空は、「許せる」ために強くなったのだと。
「蛇の道」や「界王星」での修行は、相手を「殺す」ためではなく「許す」ための「強さ」を獲得するためにあったのだと。
「サイヤ人」同士の「同族殺し」の物語に関して、バッドエンドかトゥルーエンドかを分けたのは、「同族」の命を奪ったか、奪わなかったか、「許し」の態度を完遂できなかったか、できたか、だと思います。
そして、人間同士の「同族殺し」が色濃い「孫悟空少年編」のVSレッドリボン軍編の文脈を継いでる「人造人間・セル編」。
クリリンが人造人間18号をかばう、という展開が描かれます。
(『ドラゴンボール』32巻 鳥山明/集英社 より引用)
「許す」という言葉とは少しニュアンスが違いますが、クリリンも敵か味方か、人間か人造人間かという「境界」にこだわらない態度を持っていることはいえそうです。
そして、その「大らかさ」は悟空からクリリンへと伝播したものだと捉えれば、最終的にクリリンが18号と結婚する流れも、悟空からはじまった「大らかさ」と「許し」が伝播していくストーリーラインと繋がって捉えられそうです。
「サイヤ人編」のVSベジータ戦のラストではベジータに止めを刺そうと(殺そうと)刀を振り上げたクリリンが、「人造人間編」の18号の時は爆破装置を手放すのです。
「同族殺し」の文脈におり、また敵だった18号が最終的にクリリンと結婚して子のマーロンと一緒にいる風景は、作中でもとても好きな場面の一つです。
(『ドラゴンボール』36巻 鳥山明/集英社 より引用)
偶然にしてはあまりにも作品全体で悟空が「許す(あるいは許そうとする)」シーンが多いので、総じて、作品全体としては勝利することよりも「許す」ことに力点が置かれているのが伺えます。
悟空の「大らかさ」の結果「境界」が無効化されて「許し」が生じ、「許し」の結果「大らかさ」が伝播して世界が広がりまた「許し」が生まれ……この繰り返しで「同族殺し」の解放の連鎖が起こっていくというメカニズムを一つ導き出せると考察します。
5、『ドラゴンボール』の世界は悟空によって「同族殺し」から解放されていく
最後に、これまで考察してきたメカニズムで『ドラゴンボール』の世界が、どのように「同族殺し」から解放されていったのか、その風景を見ていってみましょう。
5-1 ピッコロ(マジュニア)は「同族」のナメック星人のために戦うことができるようになる
まずはピッコロ(マジュニア)が故郷の「同族」であるナメック星人たちのために戦うシーン。
(『ドラゴンボール』25巻 鳥山明/集英社 より引用)
「フリーザ編」は、ラストバトルの悟空VSフリーザがやはり印象に残ってしまいますが、ピッコロ(マジュニア)VSフリーザも、ピッコロがこの時点では「同族殺し」から解放されている。
(『ドラゴンボール』25巻 鳥山明/集英社 より引用)
今は同じナメック星人のために戦ってるのだと解釈すると熱いのですよね。
5-2 サイヤ人同士の「同族殺し」に巻き込まれて沢山の犠牲者が出た中で、最後に悟空はベジータを殺さない
先ほど考察した通り、たくさんのサイヤ人同士の「同族殺し」が描かれた「サイヤ人編」だったのですが、物語のラストでベジータが悟空(カカロット)を認めることで、(サイヤ人同士の)「同族殺し」が解放されるまでの物語としては昇華されているのですよね。
「サイヤ人」編で許し、
(『ドラゴンボール』21巻 鳥山明/集英社 より引用)
「フリーザ編」で通じ合い、
(『ドラゴンボール』26巻 鳥山明/集英社 より引用)
物語のラストで認め合う。
(『ドラゴンボール』42巻 鳥山明/集英社 より引用)
作中で明言はされてませんけれど、ラストではもうベジータも「境界」にこだわっていないのではないでしょうか。
悟空をきっかけに、ベジータ(サイヤ人)もブルマ(地球人)と結ばれ、サイヤ人と地球人の子供であるトランクスを愛し、ベジータもある種の「大らかさ」を最後には獲得しているように感じます。
5-3 人造人間17号も参加する最後の元気玉には「同族」同士の助け合いが描かれている
物語のラスト、「魔人ブウ編」のVS魔人ブウ戦の最後の元気玉のシーンでは、あまたの物語を経て本当に「境界」が無効化されていて、「同族」だろうが「同族」じゃなかろうが、沢山の人々、生命の助け合いが描かれます。
最後の元気玉に関しては全てのシーンが好きなので全部のコマについて語りたくなってくる勢いですが、今回の記事の「同族殺し」のキーワード的には二点に絞りたいと思います。
一つ目は、こちらのスノやハッチャン(人造人間8号)も最後の元気玉では力を貸してくれるシーン。
(『ドラゴンボール』42巻 鳥山明/集英社 より引用)
先ほど「孫悟空少年編」のVSレッドリボン軍編は人間同士の「同族殺し」が描かれていたパートだと考察したのですが、しかし同時に「同族」同士であったり、「同族」かどうかといった「境界」を無効化した助け合いも描かれていたのも押さえておきたいところです。
代表的なのがスノやハッチャンで、ストレートには悟空がスノやハッチャンを助けたというストーリーに読めるのですが。
あとあと振り返ってみると、得体のしれない存在である悟空をスノが受け入れ、ハッチャンは友達になってくれるエピソードでもあったんだよなと。
あの時点では悟空とスノの人間同士の無償の助け合いと受け取れますし。
(『ドラゴンボール』5巻 鳥山明/集英社 より引用)
物語が進んだ後から別の見方をすれば、実はサイヤ人で(も)あった悟空(サイヤ人)、スノ(人間)、ハッチャン(人造人間)の「境界」を超えた助け合いの話とも読めます。
(『ドラゴンボール』6巻 鳥山明/集英社 より引用)
ハッチャンとスノ。人造人間と人間も「境界」を無効化して共に暮らしていけるはずだ……と、作品全体のハッピーエンドのひな形は、「孫悟空少年編」の「ジングル村のエピソード」の帰結で描かれていたのですね。
二つ目は、人造人間17号も最後の元気玉では力を貸してくれるシーン。
(『ドラゴンボール』42巻 鳥山明/集英社 より引用)
17号は「人間」でもあり、「人造人間」でもある……というようにアイデンティティに二重性を持っています。ちょうど悟空が「サイヤ人」と「地球人」という二つのアイデンティティを持っていたように。
ゆえに最後に17号が元気玉に参加するシーンは、17号は人間として「同族」の人間を助け、また同時に「人造人間」として「同族」の人造人間18号を助けてもいるという場面なのです。
(加えて、「人造人間・セル編」が「親子」と「家族」の物語だったのを踏まえると、「姉弟」である18号と、18号がクリリンと作った「家族」に対して助力してるのでしょうね。マーロンは17号の姪でもあるのですよ……。)
この一コマ。なんか狩りとかで使うような猟銃のようなものとか持っていて、悠々自適暮らしでもしてるの? 的なのびのびした雰囲気もあり、17号もベジータと同じように、悟空と関わった結果ちょっと「大らか」になったのかなとも感じられたりするコマなのですよね。
「同族殺し」は、終わったんだな……と色々と報われているシーンです。
6、まとめ
記事の最後に、漫画『ドラゴンボール』ラストのキャラクター全員集合のページを引用させて頂きます。
(『ドラゴンボール』42巻 鳥山明/集英社 より引用)
「同族」の者も、「同族」じゃない者も、まあこの世界に共にいるか、くらいのノリが感じられてとても好きなラスト1ページです。
今回の記事では、
- そのままでは「同族殺し」に満ちている『ドラゴンボール』の世界を
- 「大らかさ」を持っている主人公の悟空が解放していく
という視点でストーリーラインを追い直してみた上で、悟空という主人公を、
- 「境界」を無効化して世界を広げていく主人公
- 「大らかさ」ゆえに「許す」ことに気軽な主人公
として捉えなおし、悟空の影響で
- 「同族殺し」から解放されたキャラクター、世界、風景
を確認してみることで、
結論として、
『ドラゴンボール』は悟空が世界を「同族殺し」から解放していく物語であると読み直せる……という考察を展開させて頂きました。
悟空という主人公には「強い」というイメージがまずありますが、単純に悟空が持つ「強さ」に憧れるなり自己投影するなりしているのみで、子供の頃あんなに繰り返し『ドラゴンボール』を読んでいたのかというと、少し違うような気もしてくるのです。
今回の記事で触れたような部分を大人になってからもう少し紐解いてみると、子供の頃の自分は、むしろ悟空が体現していた周囲に自由さや余裕を誘発していくヒーロー像の方に心躍らせていたのかもしれないと思えてきたりもします。
『ドラゴンボール』はバトルの面白さだけじゃなく、作品テーマに関しても大人になってから振り返ってみると色々な発見があったりします。
今回の記事を読んでちょっとまた気になってきたなぁという方は、また読み返してみたりして頂けたら、一『ドラゴンボール』ファンとしても望外の喜びなのでした。
相羽裕司(あいばゆうじ)
「許し」が訪れて仲間になったキャラクターがいる一方で、『ドラゴンボール』の作中には討伐された敵キャラクターもいます。
最後の「みんな共にいる風景」にピッコロとベジータはいるのに、フリーザとセルが入っていないのは何故なのか?
さかのぼること一年半ほど前に、『ドラゴンボール』を「親子」をキーワードに読み解きながら、何故ピッコロとベジータは仲間になったのに、フリーザとセルは倒されたのかを考察している記事を書いております。
同ライターによる、『ドラゴンボール』考察記事の第一弾であるこちらの記事も合わせて読んで頂けたら喜ぶのでした。↓
魔族(ドラゴン族)であり、地球を征服にやってきたピッコロが、ナッパ戦では「地球をなめるなよ」と言ってのけたのが印象的でした。