みなさんこんにちは!ほんのり歴女なマンガフルライターayameです。
毎週水曜更新の名作『あさきゆめみし』キャラ解説ですが、15.5回となる今回は番外編をお届けします。
新型コロナウイルスの影響により、海外への移動はもとより国内の移動も制限されている現代日本。
少しずつ規制は緩和されていますが、大手を振って旅行するというのはまだ少し難しい状況ですよね。
あらためて、人間って旅行=移動が好きなんだなぁと思います。
日常を離れて適度な刺激を受けることが、ストレス発散や心身の休息・リフレッシュのためにも必要ということですね。
そしてそれは平安時代の人々も同じ!
というわけで、今回は『あさきゆめみし』を通して平安時代の旅行=国内移動について、その種類や方法、当時の人々の感覚などを解説&考察していこうと思います!
このコラムの初回0回はこちらです↓
こちらは『あさきゆめみし』の完全版。美しい!
また、55周年記念の新装版も発売しています。
1、平安時代の旅の基礎知識~娯楽は少ないながらも貴重な機会~
『あさきゆめみし』における国内移動を見る前に、まずは当時の旅の基礎知識について簡単にお話していきます。
1-1 旅の種類は?仕事やプライベートはもちろん配流の旅も!
平安時代の旅の代表格といえば、国司赴任のための国内移動。
国司とは、諸国に派遣され政務や租税徴収を担当した地方官のこと。(「受領」は「国司」とほぼ同じ意味です)
単身赴任のケースもありますが、家族を伴って京と任国を家族と大移動することも少なくありません。
それから、伊勢神宮に奉仕するための斎宮一行の旅も、物語などでよく見られます。
私的な旅となると、寺社を参詣するためための物詣での旅が挙げられるでしょう。
普段なかなか邸から出られない女性にとっては堂々と外出できる貴重な機会であり、信仰のためであると同時にちょっとした娯楽のひとつと考えられていました。
そして忘れてはいけないのが、罪を負っての配流の旅と、あえて都を離れる流離の旅。
源氏の須磨への移動も、この流離の旅にあたります。
こうして平安時代の旅行の種類を見てみると、現代と異なり娯楽としての要素は少なく、いかに当時の人々が「都ありき」の都中心の生活をしていたかがよくわかりますね。
1-2 旅の方法は意外と多種多様!身分によって過酷さも変わる…?
現代において旅行の足といえば、車や電車、飛行機に船など、距離や目的地に応じてさまざま。
平安時代では、距離や目的にくわえて身分によっても旅の方法が変わります。
この時代、移動手段として貴族にもっとも活用されたのが牛車です。
牛車はただの乗り物ではなく貴族のステータスを表わすものであり、身分によって種類が細かく分かれていました。(ちなみに、牛車は徒歩よりも遅い上に揺れが大きく、けして移動手段として優れたものではありませんでした……)
牛車以外では、帝や皇后、斎宮などの高貴な人が乗る輿や、日常的に活用された馬、海や川を渡るのに必要な船などがあります。
伊勢の斎宮に選ばれた六条の御息所の娘。母子で輿に乗って移動しています
(文庫版『あさきゆめみし』2巻 大和和紀/講談社 より引用)
船は身分が高ければ立派な造りの屋形船を用い、そうでなければ粗末な小舟が用いられました。
小舟の場合、おそらく揺れも大きかったし事故のリスクも高かったであろうことが察せられます。
また、徒歩は高貴な身分の人がとる手段ではありませんでしたが、旅の一行のなかには当然徒歩で付き従う人もいました。
例外として、願掛けであえて徒歩を選択するケースもあったようです。
1-3 旅の醍醐味といえば?関所超えに歌作り……塩焼も「をかし」?
平安時代、長い旅路のなかでの醍醐味や楽しみは、現代人から見るとかなり特殊です。
たとえば川(橋)を渡る行為。
当時の橋はとても壊れたり流されたりしやすく、往路で使った橋が復路では消失していた、なんていうことも。
そのため、牛車ごと乗り込める船をあらかじめ用意しておいたり、船を並べて繋げた上に板をのせた浮橋を活用したりと、川を渡る行為は大きなイベントのひとつなのです。(※)
また、国境に置かれた関を超えるのも感慨深いもの……。
とくに有名な関所といえば、百人一首にも読まれている「逢坂の関」。(「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」)
山城国と近江国の境にある関所であり、東国への旅の際はこの関までお見送りするのが慣わしです。
それだけに人通りも多く、思わぬ人との出会いやロマンスもあったとかなかったとか……。
源氏が石山詣でに出かけた際、逢坂の関で偶然空蝉と再会したときのワンシーン
(文庫版『あさきゆめみし』3巻 大和和紀/講談社 より引用)
関所越えは違う国に入ることであり、都中心で生活している平安貴族にとって旅の遊興をそそるものでした。
そのため、関所越えをテーマにした和歌はとても多く残されています。
同じく、塩焼も旅の醍醐味のひとつ。
街道は多くが海道だったことから、旅行中は塩焼(製塩)を見ることが多かったようで、「藻塩焼く」「塩焼く煙」などの語句も歌によく読み込まれています。(※)
ちなみに、和歌に出てくる「塩焼」は旅の風物を伝えるだけではなく、その火や煙は恋心に例えられたりもしていました。
現代人の感覚からすると「磯臭い恋心って……笑」な感じですが、海人による塩作りの光景に情緒を感じるーーそのセンスこそ平安貴族ならではというところでしょうか。
2、『あさきゆめみし』に登場する地方と旅行~~
続いては、実際に『あさきゆめみし』に登場する地方やその旅路について、その一部を解説していきます。
2-1 源氏が隠遁生活を送った地・須磨
『あさきゆめみし』(『源氏物語』)に登場する旅路と聞いて一番に思いつくのは、やはり摂津国の須磨。
朱雀帝の御世に源氏が京を離れ、隠遁生活を送った土地です。
現代において須磨は神戸市を構成する9区のうちのひとつとなっており、京都からは新幹線を使えばだいたい1時間ちょっと。
『あさきゆめみし』では、源氏は京の都を明け方前に出て船に乗って移動し、追い風もあって午後四時頃には須磨に到着したとあります。
質素な旅路であったとされていますが、船は十分立派に見えます
(文庫版『あさきゆめみし』2巻 大和和紀/講談社 より引用)
およそ12時間前後の旅路であり当時の感覚でも旅程としては短い方ですが、殿上人で旅慣れていないためか、とても大変は旅だったようです。
都からやってきた源氏一行からすると、須磨は人家もなく、とても寂れた印象。
波の音にすら侘しさを感じられる様子です
(文庫版『あさきゆめみし』2巻 大和和紀/講談社 より引用)
とはいえ、須磨は未踏の地というわけでもなく、その土地に住む人たちもたくさんいましたし、畿内なのでそれなりに人の行き来もあったはず。
彼らの反応から、いかに当時の京の都が栄えていたのかが察せられますね。
2-2 住吉の神の導きによって辿り着いた土地・明石
須磨で大きな嵐に見舞われた源氏は、住吉の神の導きにより明石の入道に迎えられて明石へと移動しました。
明石は兵庫県南部で、現代なら須磨からは電車で10分ほど。
源氏は明石の入道の船に乗って移動し、このときも不思議と船はすいすい進んであっという間に明石に到着したようです。
移動距離こそ短いですが、摂津国から播磨国へと移動したため、ますます京を離れたことで源氏も旅愁を味わっています。
とはいえ、明石の入道が整えてくれた風流な住まいのおかげで侘しさは減った模様。
明石の入道はもともと三位の中将までつとめた殿上人です
(文庫版『あさきゆめみし』2巻 大和和紀/講談社 より引用)
都を離れても、都人の空気を感じられることで京を身近に感じられたみたいですね。
2-3 六条の御息所が娘とともに下向した伊勢
平安時代、伊勢といえば伊勢神宮であり、伊勢への旅といえば伊勢神宮にて天照大神を奉斎する斎宮の群行です。
『あさきゆめみし』では斎宮群行そのものは描かれていませんが、六条の御息所の娘(後の秋好中宮)が斎宮に選ばれ、母子そろって伊勢に下向するエピソードがあります。
現代なら京都から伊勢神宮までは2時間そこそこ。
通常の国司赴任の旅であれば、伊勢・京都間は往路4日、復路は2日程度だったようですが、斎宮群行となるとちょっと違います。
神に仕える斎宮一行の行列は数百人を超える大規模なもので、それゆえスピードもちょっと遅め。
途中に一志(現在の津市)での禊を組み込みつつ、5泊6日かけての移動でした。(※)
(ちなみに、帰京のルートは往路と異なり、難波津(今の大阪湾)で禊をしてから入京しました)
2-4 空蝉の夫が単身赴任する伊予
源氏に忘れられない苦い恋の思い出を残した空蝉。
そんな彼女の夫、伊予の介の任地である伊予は、現在の愛媛県にあたります。
『延喜式』(平安時代に編纂された律令法典)には諸国から京に税を運ぶ日数の規定があり、それによるとお隣の土佐までは海路25日を含み往路35日、復路18日とあります。(復路は荷物が少ないため往路より短い設定です)(※)
あくまでも推測ですが、京から伊予への移動もだいたい一ヶ月前後かかったのではないでしょうか。
船旅は女性にとってなかなか過酷ですし、都で生まれ育った貴族の姫にとって、地方暮らしは退屈なもの。
伊予の介が空蝉に気をつかい、一人寂しく単身赴任していたのも頷けますね。
粗野な伊予の介の印象が変わる印象深いエピソードです
(文庫版『あさきゆめみし』3巻 大和和紀/講談社 より引用)
2-5 伊予の介の次の任地であり末摘花も縁のある・常陸
空蝉の夫は伊予での任期を終えた後、常陸の介に任命されました。
常陸は現在の茨城県。
京からお隣の下総までは往路30日、復路15日ですので、常陸もだいたいそのくらいでしょう。(※)
伊予のときは京に残った空蝉でしたが、常陸へは夫とともに下向しました。
政局や彼女自身の心境の変化などもあったのでしょうが、伊予との大きな違いは旅路がオール陸路なことです。
おそらく、牛車を使った比較的のんびりした旅だったと考えられます。
また、常陸といえば忘れてはいけないのが末摘花。
彼女の亡き父親は常陸宮と呼ばれており、おそらく彼は常陸の守を務めていたのでしょう。
親王が国司を務める場合、任国に赴く事はまずなく、これを遥任国司といいました。
2-6 夕顔の娘が幼い時期を過ごした筑紫
夕顔の忘れ形見である幼い藤原の瑠璃君(後の玉鬘)は、母親が行方不明になってしまったため、乳母に連れられ筑紫(九州)へと移動します。
旅路は粗末な船を使った海路がメインで、たどり着いたさきは肥前(現在の佐賀と長崎)。
当時、京から太宰府(福岡)までは海路でおよそ30日ほどだったので、肥前までは海路+陸路で1ヶ月ちょっとかかったのではないでしょうか。(※)
幼い姫君には辛く過酷な旅であったと察せられます。
また、当時の周辺海域には海賊も出没しており、都で暮らす貴族には想像もできないような危険と隣り合わせの旅でもあったのです。
都で暮らす上級貴族の姫君ならまず経験することはないでしょう
(文庫版『あさきゆめみし』3巻 大和和紀/講談社 より引用)
3、まとめ
今回は番外編として、キャラクター解説ではなく『あさきゆめみし』におけるさまざまな旅路の解説をしました。
『あさきゆめみし』を読んでいると、都で生まれ育った貴族にとって地方はそこがどれだけ栄えていても「田舎」であり、邸から出ることもない深窓の姫君からすると地方=もはや恐怖の対象であったことがわかります。
顕著なのは末摘花です。
こちらは末摘花が叔母に筑紫へと誘われたときのエピソード。没落したとはいえ宮家の姫。無意識に田舎を見下げています。
(文庫版『あさきゆめみし』3巻 大和和紀/講談社 より引用)
当時の貴族の暮らし方や交通の便の悪さが、地方を実際の距離よりもさらに遠いものにしていたのでしょう。
そう考えると、究極の箱入り娘だった末摘花の言動も仕方なく思えますね。
なんせ当時はSNSもないし写真もないし、遠い地方の様子を知る術もないのですから。
それでも、平安貴族たちは国内を縦横無尽に移動しました。
それは仕事のためであったり、プライベートの旅行であったり、はたまた罪を背負った望まぬ旅であったり……。
旅の事情は様々ですが、その旅路は多くがつらく苦しいもの。
しかし、須磨へと流れた源氏しかり、筑紫から京に命からがら戻った玉鬘しかり、苦しみを乗り越えたからこそ多くを得られたケースもよく見られます。
今のように気軽に旅行できたわけではない平安時代、旅は人生の大きな転機でもあったともいえるでしょう。
(ayame)
※参考文献『ビジュアルワイド平安大事典図解でわかる「源氏物語」の世界』倉田実/朝日新聞出版 2015年
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